日別アーカイブ: 2020年4月26日

世界の竹紙探訪の旅 中国編その2

2. 福建省編 

中国の東南部、福建省の竹紙づくりを見に行った。福建省もまた竹の多いところで、 古い中国の文献にも竹紙の産地として記述がある。中国の古書「蘇易簡紙譜」には、紙を作るのに「蜀人は麻を以てし、門人は嫩竹を以てし、呉人は繭を以てし、北人は柔皮を以てし、端渓は藤を以てし …楚人は楮を以てす」と記されている。この門人というのが南方の福建省周辺の人のことで、水上勉氏や久米康生氏の造紙研究の著書にも、しばしば福建省の名前が挙がっているのを知っていた。

テラでも、山梨県で文具四宝の会社を営み、中国と交易のあるKさんという方から、以前に中国竹紙の話を伺い、福建省の手漉竹紙を取り寄せたことがあった。私たちの手漉き竹紙とはだいぶ感じ の違う半紙のような薄手のなめらかな紙で、これが本当に手漉き竹紙なのかなあと気になっていたのだ。

そこで、今回は、K さんにお願いして、その福建省の竹紙会社に事前に連絡を取ってもらい、あらかじめ先方に伺う約束をしていた。一応約束して会社を訪ねるのだから、あまり失礼があってはいけないと思い、通訳も、娘だけでなく、娘の推薦する中国人の友人・曾莉芬さんにも同行をお願いしてあった。
莉芬さんは、娘と同じ大学の日本語学科を昨夏卒業し、現在中国政府の奨学金で日本の大学院 に留学中(この時は留学前で在中していた)の優秀なお嬢さんだ。過去にも日本に 1 年の留学経験があり、日本語はべらべら(はっきり言ってわが子たちより語彙が豊富)のみならず、娘に言わせると、 物事をはっきり言うのが当然の中国人の中で数少ない、曖昧なニュアンスの日本語を理解する中国人 なのだそうだ。

私たち一行 5 人は、福建省の港町、アモイを起点に、またまた長距離バスに乗り込んだ。めざすは、 内陸部の連城という町だ。K さんからは、アモイから連城へはタクシーで 8~10 時間かかると聞いてい た。しかも、途中の道は、工事や事故や崖崩れなどでしばしば通行止めになることがあるから、必ず水と食料を常備していくようにと忠告を受けていた。しかし、ここでも中国の近代化は猛スピードで進んでおり、できたての高速道路のおかげで、アモイから途中の龍岩という町へは高速バスで3 時間 弱、そこでバスを乗り換え、次のバスは空調はなかったが、また3時間弱で連城に着くことがてできた。 途中はのどかな農村で、道路の両側に広がる竹藪とバナナの畑が同居する光景が、なんだか見慣れな い不思議な印象だった。

竹紙の会社を見学する

連城の町からそう遠くないところに、教えていただいた竹紙の会社があった。訪ねると、場長の江 道水さんをはじめ、副場長や経理主任など、社員の方々がずらりと並んで私たちを出迎えてくれた。 恐縮しつつ自分と家族を紹介する。

日本から竹紙の会社を経営する人が見に来ると聞いて、もしや大取引を期待して胸弾ませておられたのではないだろうか。それが、現れたのはリュックを背負った変な家族連れで、「あれえ、こんなやつらか」と実はがっかりしているのではないか、と不安がよぎる。 でも場長の江さんは、そんな様子はまったく見せずに、私たちを暖かく迎えてくれる。「私たちを紹介 してくれた K さんは、自分の大切な友人だ。その友人が紹介してくれたあなた達もまた、自分にとっ ては大事なお客様だ」と江さんは言ってくれるのだった。

まずお茶をごちそうになったあと、社内にある紙の倉庫や、できあがった紙の検品の様子を見せていただく。倉庫にはさまざまな竹紙が数メートルの高さに積み上げられている。薄くて白っぽい竹紙、 やや黄みがかった竹紙、長さが 2 メートル以上の紙もある。

江さんの説明によれば、「福建省は古くか ら竹紙の産地として知られているが、その 95 パーセントがここ連城で作られている」とのことだ。江 さんの会社では、日本や韓国から紙の注文を受け、近隣のいくつかの工場(作業場)に依頼して紙を製作、できあがった紙をここに集めて注文に応じた形にして輸出しているそうだ。
この会社で作られ る紙の 95 パーセントが日本用の書道半紙、5 パーセントが韓国用の書道紙やふすま紙と聞き、そんな に日本に竹紙が入ってきていることに驚きを覚えた。ただし、ここで作る紙はすべて 100%竹紙という わけではなく、竹紙に麻や楮の紙を混ぜたりして仕上げているものもあるとのことだ。

私が中国での竹紙の生産状況を尋ねると、江さんは「竹紙は、原料の竹は安いが、作るのに手間暇 がかかり、利益効率が悪い。中国政府は現在麻や楮の紙をより奨励しており、竹紙は厳しい状況だ」 と言っておられた。この日は到着がすでに夕方だったので、連城の町に泊まり、翌日ゆっくり竹紙の 製作現場を見せていただくことになった。

ホテルに荷物を入れ一服していると、江さんの会社の経理主任、周さんが晩ご飯をごちそうします と迎えに来てくれた。言われるままに、我々一行5人はぞろぞろついていく。案内された店に着くと、 個室に場長の江さん以下、会社の役員 4~5 人の方々が勢揃いしていた。

連城は田舎の町だし、ごちそうなど期待してはいなかったのだが、次々出てくる料理を見て私たち はびっくり仰天。イノシシの炒め物、ウサギの煮物、鶏 1 羽のゆでたもの(上には顔までついている!) 野鴨が丸ごと入ったスープ(姿作り風に全身入っていて、くちばしが鍋から突き出ている!)、めずらしい湖魚や川魚、そしてさまざまな野菜や山菜、栗やキノコの炒め物や煮物。どれも食べたこともな い珍しいものばかり、盛りつけも美しく、量も半端でない多さだ。

私たちが目を丸くしつつおいしくいただいたのは言うまでもないが、さらに驚いたのは乾杯だ。み なで円形テーブルを囲んで食事をしていたのだが、江さんをはじめ、居合わせた方々が、食事中にひ とりずつおもむろに立ち上がり、「小林さん一家の中国訪問を祝して乾杯させてください」といってお酒を注いで乾杯してくれるのだ。そのたびに私たちは立ち上がり、注がれたグラスを飲み干す。一人 終わると次の人が、また終わると次の人が、と全員が乾杯してくれて、たいへんな乾杯責めにあった。 夫だけはひとり予防線を張り、一番最初に「僕はお酒が全く飲めないので失礼をお許しください」と いって、ウーロン茶で許してもらえたのだが、他の 4 人は乾杯のグラスを次々と干さねばならず、見る見る真っ赤になってしまった。19 歳の娘も、高校 2 年の息子もまた…。でも、中国の客人へのもて なしの古き良き伝統をかいま見たようなひとときだった。

紙漉場を巡る

翌日は朝 8 時に周さんが車で迎えに来てくれた。1 日がかりで点在する紙漉場を見て回る計画なのだが、まずは朝食だ。昨晩から、朝食は豚の内臓料理を食べましょうと誘っていただいていた。朝から内臓料理?と、ちょっと心配だったが、この辺の名物料理なのだそうだ。そして「なんといっても内臓は朝が新鮮でいい」と周さん。周さん、それっていったいどういう意味ですか!?

その日の朝食メニューは、お粥、スープ、餃子、香草入りの蒸しパン、米で作ったどぶろくのよう なお酒がたっぷり入った飲み物、そして山盛りの豚の内臓のボイルしたもの。これは心臓、これはレバー、これは大腸と教えてもらいながら、刻みショウガや薬味の香草をたっぷり乗せて食べるゆでた ての内臓料理は、意外に生臭くなく、想像以上にあっさりおいしいものだった。やっぱり決め手は新鮮さだったのだろうか。

さて、いよいよ紙漉場へ向かう。電車もバスも通っていない地域なので、江さんの手配してくれた ワゴン車で回る。もちろん江さんも一緒だ。道には牛や鶏、犬そして人が自由に行き交い、田んぼでは鴨が家族連れで鳴いている。

紙漉場は工場といっても取り立てて機械があるわけではなく、がらんとしたコンクリートの建物の中には、いくつかのコンクリートの水槽と、材料が回りながらつぶれていく大きなミキサーのような? 簡単な装置がある程度。

それぞれの水槽の前ではおじさんたちが紙を漉いている。

確かにすべて手漉 きだ。
桁のついた漉き枠に竹に漆を塗った簀がはまっていて、それで水槽の中の材料を何度か揺すっ て漉き返し、簀をひっくり返して漉いた紙を重ねていくやり方は、夾江の徐さんがしていたのと同じだ。時々横の小水槽から大きなひしゃくのようなもので水槽に何かを入れてはかき混ぜている。聞いたところ、ネリを使用しているとのことだった。江さんや作業にあたる人からは、このやり方は、基 本的には昔から受け継がれた伝統的な方法だとの説明を受ける。

私は、材料にネリを入れ流し漉きす る紙漉方法は、日本の和紙が独自に発展させた方法だと読んだり聞いたりしたように思っていたが、中国ではどのくらい前からこの方法をおこなってきたのだろう。私自身は水上勉氏に習ったやり方を踏襲し、ネリを入れずに溜め漉きをしているのだが、中国でも、もともとは原始的な溜め漉きだったものが進化して、流し漉きに変わっていったのだろうか? それはいつ頃のことで、日本との違いはどのように生まれていったのだろう? また、現代日本の和紙に反して、水上方式では、なぜ竹紙にネリを入れない形にしていったのだろう。新たな疑問がさまざまわいてくる。

漉き枠はかなり大きなものあり、漉き手の人たちは、2m以上の紙もいともたやすく漉いている。み んな地元の人たちで、昔から紙漉をしている熟練の職人さんだそうだ。ここの人たちは 1 日にひとり 約 1000 枚の紙を漉くとのこと。大いに尊敬する。場長の江さん自身、16 歳から紙漉に携わり、もう 40 年も紙漉に携わっているとのお話だった。

私はぜひ竹を漬け込んでいる場所を見たかったのだが、場長の江さんに聞いたところ、「竹を漬け込んでいるのはかなり山奥の溜め池で、行くのも大変な場所だし、匂いも臭いから無理だ」とのこと。 今回は残念ながら見ることはできなかったのが少し心残りだった。

福建省の紙漉場で意外だったのは、竹紙作りの工程の中で、竹を煮る作業がなかったことだ。四川省の夾江では、写真でも展示物でも大釜で竹を煮ていたことがわかるし、「天工開物」にも材料を煮る 絵があったから、当然煮る工程は基本としてあるはずと思っていたのだが、通訳の莉芬さんに何度確 認してもらっても、ここでは竹は煮ないという。孟宗竹の若竹を切り、山奥の小さな湖に浸けて軟化させてから取り出し、その後はいきなり苛性ソーダを入れてミキサーにかけてパルプ状にしてしまうというのだ。これは大きな違いだ。

私たちが竹紙を作っている際にも、4、5 年漬け込んだ竹ですら、3 日ほど煮なければ、とてもバルブのようには柔らかくならない。薬品をかなり入れて作業しているの だろうか? でも、そうだとしたら、昔は苛性ソーダなど使ってはいなかっただろうし、どうしてい たのだろう。近代化の過程で方法が変わったのかもしれないと思い、そのへんのことも聞いてみたが、 やはり「昔からこうやっている」との返事だった。竹紙に限らず、中国の少数民族の紙作りなどでも煮ないで紙を作るところがあると久米氏の文献で読んだことがあるが、この地域のやり方なのだろうか? 結局、なぜここでは竹を煮ないのか、詳しい理由はわからなかった。今後ぜひ機会を得て、さらに調べてみたいものだと思う。

作業工程の中で、よい方法だと思ったのは、漉いた紙を乾かす際に、鉄板に張って干しているのだが、鉄板を直に熱を加えるのではなく、お湯を循環して暖め、その熱で紙を乾かしていたことだ。作業の人たちは重ねて水切りした紙を一枚ずつ巧みに剥いで、刷毛を使って鉄板に張っていくのだが、 作業をする人にとっても熱でけがをすることがなく安全でよい、と江さんも言っていた(ちなみに、私たちはといえば、溜め漉きして木枠のまま天日干しする形を原則的にしているので、こうした方法はとってはいない)。

竹紙の今後とこれからの課題

私たちは江さんと 4 つの工場を見て回ったが、伝統的な手法にちょっと変化があったのは、第 2 工 場だ。ここは江さんの息子さんが 27 才の若さで工場長を務めている。第 2 工場だけは、紙を漉く作業 に少し自動化が取り入れられており、材料の入った水が、漉き枠の上に自動的に流れてきて、人が手 を動かさずに木枠に手を添え受けるだけで紙漉ができるシステムになっていた。近年の台湾のやり方 を導入したものだそうだ。

均一に材料水が流れてくるを待つだけの機械的な紙漉は、わたしにはちょ っと寂しい気もしたが、手を返さずにすむので腰や腕に負担が少なく、何より熟練した技が必要ない ので、若い人でも作業が可能なのだそうだ。仕上がりにも多少の差はあるが大きな変化はないという。 確かに、他の工場がかなり年輩のご老人ともいえる職人さんだったのに比べ、第 2 工場だけは、年齢 層が若いのが特徴的だった。紙を乾かす作業にも、他では見かけなかった女性の作業員が採用されている。ここでは、若い息子さんの考え方が経営に反映されていることがわかった。

きっと中国では、これからさまざまな場所や場面で、日本がたどってきたような激しい近代化の波が訪れるのだろう。そうした流れの中で、得られる便利さと失われる古きよき伝統、二律背反どうしても避けられない問題も出てくるのだろうと思う。他の工場にいた職人さんの未来はどうなるのだろう。夾江の徐さんの手作りの紙に対する喜びや誇りは、若者にも受け継がれていくのだろうか? でも、高齢になる職人さんを継ぐ人がいなければ、紙の未来もないわけで、若い人のやり方もまた否定することはできない。これから、中国の竹紙はどのような道をたどっていくのか。そして私たちもまた何をめざしてどこへ向かうのか? そんなことを思いつつ、二代目工場長の若々しい横顔を眺めた。

今回の中国竹紙の旅では、実際に現地へ行き多くのことがわかった一方で、さらに疑問に思ったり 調べたいこともまた多く生まれてきた。その一つに、一般庶民が竹紙をどのような用途で日常的に使 っているのかということがある。今回は 2 カ所の竹紙の郷を訪ねることができたが、1 カ所は博物館、 1 カ所は輸出を多く行う紙の会社ということもあり、庶民の利用状況には今一歩踏み込むことができなかった。しかし、町中で竹紙を見かけなかったかいえば、実は見かけた。どこで? それは「仏具屋 さん」である。仏壇の飾り物などを売っているようなところには、夾江の博物館や連城の竹紙会社で見たのより、ずっと粗くて安い、黄色い竹紙とおぼしき紙の束がよく売られていた。連城の江さんや 通訳の莉芬に聞いたところでは、中国のお盆の時期には、日本の送り火や迎え火のような感覚で、竹 紙を燃やす風習があるという。仏具屋さんに売っていた竹紙は、たぶんそうした目的のためのものだったのではないかと思う。以前、台湾でもお葬式のときに竹紙を使うと聞いたことがあるし、東南ア ジアのミャンマーでも、寺院などで宗教的な用途に竹紙を使うと聞いたことがある。そんな竹紙はだれがどこで作り、実際どのように使われているのだろう。見たい思いが募る。

中国竹紙のバリュエーションについても、まだまだ知りたい思いが残った。私がこれまでに見た中 国竹紙のほとんどは、薄くてなめらかな書道半紙のような紙だった。それらの主な用途は書や墨彩画であろう。けれども、日本でかつて生活のさまざまなシーンに紙が使われていたように、竹紙にもさまざまな形態があり、生活のそこここで使われた、というようなことはないのだろうか? もしそう した歴史があったなら、それらを知ることが、これからの私たちの竹紙の未来を考えることにもつながっていくこともあるのではないか? そんな思いも抱いた。

中国は広い。東西南北さまざまな地域にさまざまな人々が暮らしている。少数民族も独自の文化を持っている。そして中国の多くの場所に竹は生育している。中国だけではない。アジアを中心とした多くの地域に竹は生えているのだ。そこには私が知らない、竹から作られた竹紙がまだまだあるのではないだろうか?

今後時間はかかるだろうが、世界の竹紙を作っている人と使っている人の暮らしを、少しずつでも 見ていきたいものだと思っている。そしていつか、世界の竹紙展の開催を実現させたいと願っている。

*調査訪問時期は2005年8月です。2020年の現在では様子が変わっている可能性もありますが、当時の写真と日記の臨場感をそのままに残しておきたいと考えましたので、当時のままに記載しておりますことをご了承ください。