(展覧会としてご覧いただくつもりでおりました「世界の竹紙展」ですが、新型コロナウイルスのために、会場にて開催することが叶いません。そこで、ネット上でみなさまに展示をご覧頂く形で公開したいと存じます。本日より連休明けまでの間、中国のいくつかの場所、ラオス、ミャンマーなど、これまでに訪れた竹紙探訪の旅の記録を公開していきますので、どうぞごゆっくりご覧ください)
1. 四川省編
竹紙の店を始めたときからいつかは実現したい一つの目標があった。
「竹紙の専門店」と名乗った以上、国内外を問わず、世界中の竹紙を作る場所で、竹紙を作る人やそのようすを見てみたいと思っ ていたのだ。
そんな私に格好のチャンスが訪れた。娘が中国の大学に 1 年間留学することになり、一度は様子を見に行こうと中国行きの名目がたった。ならばついでに日本竹紙の源流である中国竹紙の郷を訪ねてみてはどうか、と家族をさりげなくそそのかし、じつは娘を通訳に、夫をカメラマンに、 息子を荷物持ちに仕立てるべくもくろんで、2005 年 8 月、往復飛行機だけを取り日本を出発したのだった。
竹紙のふるさとはどこ?
8 月 15 日、娘が暮らす中国湖南省の長沙から成都行きの飛行機に乗った。
その年は春から中国国内で反日感情が高まり、デモやトラブルも報道されていた。おりしも移動日は終戦記念日当日。機内で新聞を開くと、「祝・抗日勝利 60 周年記念!」の見出しが踊り、東条英機以下数十名の戦犯日本人の写真が紙面を飾っていた。日本では戦争は遠い過去のことのように思う世代でもあり、 戦争には反対こそすれ、自分が戦争責任の側にいるという認識はほとんど抱いたことがなかったが、 中国ではなんだかほのかな罪悪感すら感じてしまい、日本人だとわかったら何か言われるかも? とちょっとドキドキしてしまった。でも、個人で旅をする私たちに悪口を言う人はだれもおらず、旅の間中、日本人だということでいやな思いをすることは一度もなかったということを、両国の友好のために一言言っておきたいと思う。
さて、成都に行ったのは、四川省の夾江というところに竹紙の産地があると古い中国の文献に書いてあったからだ。四川省はパンダのふるさとでも知られるとおり竹の豊富なところである。町の中にもさまざまな種類の竹が見られる。日本のように太い孟宗竹は少なく、細い株立ちの竹が街路樹のように植えられている。
夾江は地図で調べると成都の南側にあり、崖に彫られた磨崖仏で有名な楽山という世界遺産のやや近くにある。世界遺産になっているくらいの場所なら、行く方法はいろいろあるだろうと成都で調べてみると、いくつか長距離バスが出ていることが判明。夾江行きの長距離バスもあるとわかり、翌日出発と相成った。
中国は近年高速道路建設ラッシュで、数年前までは夾江や楽山への道もずいぶん時間がかかったそうだが、今では高速バスで成都から2時間あまりの距離だ。
夾江へはすいすいと着いたものの、実は、 そこから先の情報は日本では何も得られていなかった。夾江は観光ガイドなどには全く出てくることもない、なんの変哲もない地方の町で、ましてや竹紙の産地などという情報が出ている本は、一冊たりとも見つからなかった。
そこで、夾江のバスターミナルにたむろする運転手さんや車掌のおばちゃんを捕まえては、娘の通訳で竹の紙を作っているところを知らないかと片っ端から聞いて回った。
すると、「それなら○○村で作っている」といい出す人が現れ、向こうのバスが行くという。バスの所 に行くと、車掌のおばちゃんが、「バスはもう出るわよ。どうするの、あんたたち。乗るの?乗らないの?」と急かすので、「ようわからんけど乗っちゃえ!」と、言われるままに小さなおんぼろバスに乗り込んだ。
バスは 15 人乗りくらいの田舎のガタゴトバスで、全員地元とおぼしき乗客たちは、見慣れぬ私たちに興味津々の様子。「どこから来たの?」「どこへ何しに行くんだ?」と目を丸くして聞いてくる。
道は高速道路から一転して舗装でなくなり、バスももちろん空調はなし。開け放った窓からは、赤土の 土埃を巻き上げた真夏の風が大胆に入ってくる。
農家の点在する細い山道を数十分走り、これまで見たこともないほど辺鄙な田舎まで来たころ、車掌さんが「ここに竹紙の会社がある」と教えてくれた。あわててバスを降りる。
そこは村の小さなメインストリートといった感じで、水たまりのある未舗装の道の両側には、野菜や乾物、雑貨を並べた 露天の店が並んでいる。歩く村人や自転車に混じって、犬や鶏も残飯をあさってうろついている。
少し歩くと、確かに紙の会社があった。書道半紙のような全紙サイズのキナリ色の紙が積まれ、この田舎には不似合いともいえるそこそこの規模の会社である。
早速入り口付近にいる作業員風の男性 2 人に「これは竹の紙ですか?」と尋ねると、そうだとの返事。やったぁと小躍りして、竹の紙を作っ ているところを見せてほしいと頼むと、あっさり断られてしまった。「許可がないとだめだ」というのだ。
「許可ってどこで何を?」と聞くと「成都の公安へ行って許可をもらってこい」との返事。成都ま では数時間の道。ようやくここまでたどり着いたのにそんな・・・と食い下がって頼んだが、先方はとりつくしまもない。さすが社会主義の国。個人の規模でやっているところではなさそうで、この男性たちに頼んでも答えは出そうにない。
短い村のメインストリートを端まで歩いてみたが、生活の店があるだけで、ほかに紙屋さんはない。仕方なしに屋台の饅頭屋で肉まんを買って食べて露天の店 をのぞいていると、店の人や通行人と話が広がった。
「こんな所に何しに来たの?」「日本から」「なに、竹の紙を探している?」「作っているところをみた いんだって」「あそこに紙の会社があるだろう」「見せてもらえなかったんだってさ」。
観光客、まして や外人など来ることもないような村だから、村人たちは、何事かとのぞき込み話に加わる。
と、一人 の通行人が「夾江には竹の紙の博物館があるよ」といいだしたのだ。 「ええっ!どこですか?」思いがけない情報に驚き、博物館の地名と名前を書いてもらった。今はそ れしか情報はないのだから、とにかくそこをめざしてみようと決め、再びガタゴトバスにゆられて、 夾江の町へと戻った。
竹紙の博物館へ
夾江から博物館への行き方はさっぱりわからなかったので、奮発してタクシーに乗り込んだ。博物館がそう離れた田舎にあるとは思えなかったので、町のどこかにあるのだろうとあたりをつけていたのだ。ところが、タクシーはどんどん郊外へと走っていく。道の真ん中でトウモロコシを干したりしている農家をいくつも過ぎ、かなりの距離を走ったころ、到着を告げられた。
これまた何もない山と川のほとりだ。ここはいったいどこ?と辺りを見回すと、地図があり、地図上の奥の方に確かに造紙博物館の文字が見える。
この一帯はちょっとした史跡になっているらしく、博物館への道は、タイムスリップしたような古 い集落だ。他の町ではもう見かけることのない青い国民服のおじいさんや、纏足かと思う小さな靴を 履いたおばあさん、毛沢東の肖像もある。
次第に道はうっそうとした山道になり、周りの崖には細かなたくさんの彫り物が出現する。赤い土肌一面に磨崖仏が彫られているのだ。
その後世界遺産の楽山にも行ったが、ここの磨崖仏は、大きさこそ小粒だがひけをとらないすばらしい彫り物で、観光客の多い楽山に比べ、誰一人いない自然の山中で歴史と文化を感じられる希有な場所だった。
汗をかきかき山道を進むと、奥手の山の上にまるで竜宮城のように忽然と赤い建物が見えてきた。
それが私たちのめざす四川省夾江造紙博物館だった。
山門のような入り口をくぐると、そこには中国 の竹紙の歴史がたっぷりと詰め込まれていた。
竹柵にはじまり、元の時代の竹紙、明の時代の竹紙と、竹紙が時代順に陳列ケースに並んで保存されている。1000 年前の竹紙が今なお確かに残っていることに驚きを覚える。
我等が竹紙づくりのバイブル「天工開物」や殺青の絵も展示されている。
「天工開物」は宋の時代に書かれた 中国の技術書ともいうべき古書で、竹紙の作り方が絵とともに図解されている。私たちは(というよ り水上勉氏は)、その本の記述に基づいて竹紙作りを日本で復元製作してきたので、ああ、中国でもやはりこれが基本なのか、と改めて感慨が沸いてくる。
展示写真も、竹を切る様子から煮熟、漬け込み、 叩解、紙漉と、村人たちが総出で協力しあってやっているような様子が写されパネルになっている。 「天工開物」の絵の通りの風景だ。この一帯は昔から造紙の郷として知られるところだったらしい。
竹を煮たり搗いたりする古い道具も展示されている。
紙漉の簀は、竹で極細・繊細に作られ、きれ いに漆を塗られており、見事な作りだ。2 メートル以上の漉き枠もある。
また高さ 3 メートル以上の竹を煮るための大きな木製の釜が実際に展示されているのを発見したときは、思わず「これだ~!!」と 叫んでしまった。この大釜は、「天工開物」の絵ではおなじみだったものの、日本では使われていない ので、中国の歴史上にタイムスリップでもしなければ、お目にかかることはないのかなと思っていた のだ。それを目の当たりに見ることができるなんて、それだけで来た甲斐があったというものだ。
展示に見とれていると、先に行った息子に別室から手招きされた。何かと思ってそちらの部屋へ行くと、なんとそこでは、紙漉の実演がおこなわれていたのだった。
徐さんとの出会い
紙を漉いていたのは、徐良云さんというおじいさん。聞けば16 歳のときから 70 歳過ぎの現在まで 夾江の村で竹紙を作り続けているとのことだ。
徐さんは極細の竹籤に漆を塗った簀を使い、いとも簡 単に水槽からすいすいと紙を漉いていく。方法としては、私たちのような木枠ごと漉いてそのまま干 す溜め漉きではなく、日本の伝統和紙に近い流し漉きのようで、漉いては紙を重ね、水を絞って干すというやり方だ。
思いがけない出会いに感動し、竹紙の産地と作り方を見たくて日本から来たこと、日本で竹紙の専門 店を営んでいることなどを興奮して話すと、徐さんはとても喜んでくれた。そして、私が日本から持 参した自作の竹紙を見せると、今度は徐さんが興奮する番だった。
館内で施設管理する人とともに、 紙を見ながらああだこうだと熱く話している。互いに聞いたり話したいことがいっぱい沸いてきて、 専門的なことも含め、矢継ぎ早にあれもこれもと質問を飛び交わせていると、娘が音を上げた。「ごめ ん、さっぱりわからない!」
娘はまだ中国に行って半年で、語彙も十分ではないこともあるのだが、 どうやら徐さんたちも興奮して地元の言葉でまくし立てていたようだ。中国では標準語とされる北京語以外に、隣村でも言葉が通じないときがあるというほど、さまざまな方言があるらしい。
まあいいのだ。今回の大きな目的は、中国の竹紙づくりの細かなノウハウを知りたかったわけではなく、世界のどこで、誰が、どうやって竹紙を作っているのか、この目で見てみたかったということなのだから。それがかなっただけで十分だ。
徐さんは博物館をずっと案内してくれ、一角にある紙の始祖、蔡倫をまつった祭壇にも連れて行ってくれた。私たちは今日の自分たちがあることを蔡倫の石像に感謝して手を合わせた。
最後に私と徐さんは互いの作った竹紙を交換しあって別れた。徐さんは博物館の奥にある自分の寝 室(昔の中国映画に出てくるようなかわいい蚊帳つきのべッドのある小部屋だった)から自作の紙を 出してきて「それ、売るのか?」と聞く管理人に、「いいやあげるんだ」と誇らしげにいって、私に持たせてくれたのだった。国や言葉を飛び越えて、ものを作る者同士が分かり合える、嬉しい出会いだった。
*調査訪問時期は2005年8月です。現在ではまた様子が変わっている可能性もありますが、当時の写真と日記の臨場感をそのままに残しておきたいと考えましたので、当時のままに記載しておりますことをご了承ください。