緞通談義のご報告

アリアナキリム展無事終了しました。
展覧会最終日には、会場2階で、私の手元にひょんな事からやってきた謎の紙敷物をめぐって「緞通談義」を行いました。

左が私の所有する紙の敷物、右が赤穂古緞通(根来節子さん所蔵)です。

私の紙敷物の文様が、赤穂緞通の「網利剣・縁矢羽根文」という文様だと分かったことから、赤穂の方々とのつながりが生まれ、赤穂からは、赤穂緞通の織り手であり継承者でもある根来節子さん、阪上梨恵さん、吉田愛さんがきてくださり、赤穂市歴史博物館学芸員として赤穂緞通に関わってこられた木曽こころさんも参加してくださいました。
鍋島からは、長く佐賀県立美術館の学芸員を務められた宮原さんが、夜行バスで駆けつけてきてくださいました。
そのほか、Facebookでつながってくださった方、織りの勉強をしていらっしゃる方、テラの話を聞いて参加してくださった方なども集い、膝突き合わせての談義となりました。

前半は、宮原さんと木曽さんが、プロジェクターを使って、紙の敷物や緞通の歴史について調べられたことなどを発表してくださいました。

宮原さんは、福井に「ゆとん」と呼ばれる伝統的な紙の敷物があり、これは和紙を層にしてエゴマの油を塗ったもので、夏を涼しく過ごすための伝統的なものだったと教えてくれました。私の敷物との関連は定かではありませんが、日本には、和紙を使ってのそうした敷物の歴史もあったことなど知ることができました。
また、古物のオークションサイトや骨董関連の場所では、私が持っているのと同じ文様の紙の敷物がいくつか出ていることも教えてくれました。
また、お茶、煎茶道の世界では、「茶具敷」と呼ばれる敷物があり、お茶道具を置く敷物として、古更紗などが使われていたことから、こういった用途で紙敷物の使用はなかっただろうか、というお話も出ました。佐賀出身の売茶翁の話も、今回との関連はわかりませんが興味深い話でした。

木曽さんからは、赤穂緞通の歴史やその周辺のことについてご説明いただきました。
赤穂緞通は、鍋島緞通が藩の庇護の元に育てられてきたのとは全く異なる歴史を持っていて、江戸時代に生まれた「児島なか」という一人の女性が、たまたま見た中国の緞通に心惹かれ、二十数年の月日をかけて独自の工夫を重ね、明治時代に完成した織敷物です。

以後、赤穂ではいくつかの会社ができて、赤穂緞通が作られるようになり、皇室などでも御用達となり栄えたそうですが、戦争の影響を受けての物資調整により、継続が難しくなり、戦後途絶える寸前まで来ていたところを、市のプロジェクトにより継続への道が開かれ、根来さんたち20名の方々がその技術を学ばれ、次世代へと継承されているという、独特の歴史を持つ緞通でもあります。

「網利剣・縁矢羽根文」は、赤穂緞通の代表的な文様の一つで、別名「忠臣蔵」とも呼ばれる人気の紋様ですが、似たものは、鍋島や堺にもあり、元はトルコの北、カスピ海コーカサス地方にあったスマック織の文様にルーツがあるのでは、とのお話でした。
でも、私の紙敷物の紋様は、鍋島のものとは少し異なるので、やはり、赤穂か堺の網利剣文様だろうとのことでした。

明治期から昭和にかけての織敷物としては、「由多加織」と呼ばれる稲藁を使った緞通や籐の緞通も存在していたそうで、阪上梨恵さんが今回現物を持ってきてくださいましたが、由多加織は、無地の平織に織られた上から型染による染めが施されて模様が描かれていて、この時期には、日本独自のさまざまな素材、技法による緞通、敷物が、存在していたことも、今回教えていただきました。

談義後半には、皆で膝突き合わせて、私の紙敷物や、持ってきていただいた古緞通を見比べながら、また会場に敷いたイランキリムや鍋島緞通を見ながら、話が弾みました。
織物の表や裏、端をひっくり返したりしながら織り方の特徴を見たり、紙敷物の破れたところから繊維の素材を考えたり、皆であれやこれや話しているうちに、あっという間に時間が過ぎました。

私も皆さんのお話を聞き逃したくなく、なるべく席を外さないように話に入り込んでいましたら、お菓子をお出しするのもすっかり忘れてしまいました。途中、アリアナさんがチャイグラスで紅茶を淹れてくださいました。

写真もほとんど撮りそびれてしまい、この写真の大方は、参加してくださった高橋マキさんが撮影したものをお借りしています。マキさんは、私が1年前にこの紙敷物を手に入れ、Facebookで呼びかけたとき、すばやく反応してくださり、赤穂の阪上梨恵さんに繋いでくださったのでした。
いろいろな方が次々繋がってゆき、今回の「緞通談義」につながっています。

最後は時間に押されるように終了となり、まだ話に心残しながら解散となりました。

日本の緞通については、かなり理解が進みましたが、紙の敷物をいつ誰がどこで作ったのか、という点については、まだ明確な答えが出ませんでした。 to be continued…
赤穂緞通も鍋島緞通も、その大きな消費地には京都の洛中の家家があったそうですから、また、いろいろなつながりの中で、さらにこの謎解きが進むことを期待しています。紙自体の調査やお茶との関係も調べてみたいところです。

きてくださった皆様、繋がってくださった皆様、ありがとうございました。

最後の写真は、この日の昼食にアリアナ店主のマルフィーさんさんが作ってくださったイランのランチ。マルフィーさんに「イランのおふくろの味は何?」と聞いたところ、答えてくれたのが、この「アダスポロ」、レンズ豆の炊き込みご飯だそうです。

イランと日本、遠く離れたように見えて、長い歴史も文化も、実はどこかでつながり続けているのかな、と思います。

いつかまたこのお話の続きが書けますように。
何か情報お持ちの方あれば、いつでもお声掛けくださいね。