ミャンマー竹紙探訪の旅 その7

2月12日 帰路へ

朝4時半にホテルを出て真っ暗な夜道を車で南に走る。
ドライバーさんはとても運転が上手で信頼できたが、すごい標高差の山道を駆け抜け、曲がりくねったカーブをいくつも越えて、崖っぷちをトラックと行き交い、too dangerous な道のり。
それでも朝8時頃には山を下ってタージーという街までたどり着き、そこで朝食。

かまどで小麦粉を棒状に練って揚げていて、これは私たちの大好物でもあるので、甘いミルクティにつけて食べる。サモサも揚げたて、どちらもとても美味しい。ウーさんが朝は麺だと言うので、それも食べる。これも good。この街に住んでいるというウーさんのいとこ夫婦もやってきて、みんなでお茶も飲む。全員の朝食とお茶で合わせて3600K(360円)って安すぎでしょう。
かまどではナンも焼いていて、作り方を見せてもらう。テラのかまどでも同じようにできないかなあと、やる気膨らむ。

 

その後は、ヤンゴンーマンダレーを結んで新しくできたハイウエイロードを走る。
平原を真っ直ぐに突っ切って進む高速道路は、それまで走っていた道とあまりにも違うので、ミャンマーにもこんな道があるのか?!とびっくり。
でも、ハイウエイの中央分離帯に牛がいたり、農家の人が牛車で高速を渡ろうとしていたり、ありえへん光景もいろいろ。日々使っていた生活の道が高速道路で分断されて、人も生き物もとまどっているのだろう。

11時過ぎには空港につくことができ、午後のバンコク行きの飛行機に十分間に合うことができた。
ウーさんと最後のお茶。
同行中、ウーさんには通訳の他にも、ミャンマーの仏教についてや学校教育についてもいろいろ教えてもらうところがあった。

ミャンマーの人々に深く根付く仏教(上座部仏教)は、今回の旅で大きく心に残った。富める人にとっても貧しき人にとっても、心の安寧は誰もが願うところだ。そして祖先を思い子を思う気持ちは昔も今も変わらない。ミャンマーの人々にとって、仏教の教えが根底で心の支えとなっているのだと、そこここでうかがい知ることができた。それがミャンマーの人々の穏やかさの後ろにあるのだなあ感じられた。

教育についても、短い旅の中ではあるが、出会った人からミャンマーの教育は人を育てているのかなと感じるシーンがいくつかあった。
ウーさんも豊かな家の出ではなかったそうだが、学校はちゃんと行かせてもらい、そこで教育を受けることができ、それが今の自分につながっていると話していた。NORIKI日本語学校でお世話になったチョーさんやモーさん、そして日本語学校の生徒たちからも、教育に希望と未来を感じた。
ただ、竹紙を木の棒で叩いていた少女たちや漆塗りの村の少女たちは、労働力として期待され、長時間仕事をしているように思えた。男子はみな一度はお坊さんになり、お寺で過ごす時間を持つと聞いたが、女子にはない風習だし、やはり、農村部の女の子は、どうしても手近な労働力とされやすいのかもしれない。
それでもボーウィン山のカイマのように、公教育で得られた知識を糧に、自分の生活を切り開いていく女性もいる。
やはり教育の力は大きく、未来につながるのだろうと改めて思ったし、これまでに訪れたアジアの国々の中では、ミャンマーは教育に力を入れているのではないか、と感じた。

 

ミャンマー点描

ミャンマー旅で出会い、これまでの話の流れでは紹介できなかったいくつかのシーンを写真中心に。

この男の子が顔に白く塗っているのは「タナカ」というおしろい状のもの。女性や子どもなどよく顔に塗っている。日焼け止め、とも聞くが、ほっぺただけにくるくる塗っている人も多いから、効果の程はどうなんだろう?

キャンマーの牛、白い牛が多い。牛車も活躍している。

農村の家に飾られていた写真。子どもたちの卒業写真。学校教育に力を入れているのだなあと思った理由の一つ。アウンサンスーチーさんの写真も飾られている。スーチーさんの写真は、他でもしばしば飾られているのを見かけた。

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インレー湖の市場。魚も野菜も豊富だ。

町の食堂にて。こんなにたくさん頼んだわけではなく、たいがいカレーなどメインを頼むと、もれなく副菜の小皿料理が何種類もついてくることが多かった。野菜も豊富。

ローカルバスに描かれた日本語。最初は日本から運ばれた車かな?と思ったが、現代日本で右から左へ描かれた文字はちょっとないだろうし、ミャンマー国内でデザイン的に描かれたのかな?ちょっと不思議。

マンダレーなど都市部は車やバイクで渋滞していたが、農村部でままだまだこんな光景も。

 

後日談になるが、NORIKI日本語学校でお世話になったモー先生(写真右)は2016年夏に日本に短期留学されて、京都で再開を果たした。チョー校長先生の妹さんのチューチューさん(写真左)も一緒だった。清滝にもご案内して、清滝川で川遊びもして、楽しいひと時を過ごした。

旅は終わったけれど、人とのつながりは続いていくし、私の竹紙の探求はまだまだこれからだと思っている。4年ぶりに「ミャンマー竹紙探訪の旅」の報告をすることができて、今は、ずっとやり残していた宿題を仕上げた気分。
今年(2020年)4〜5月には、写真やプロジェクターなども使いながら、竹紙の旅のご報告をしたいものだと考えている。より詳細や実物の紙をご覧になりたい方はこちらへどうぞ。

ひとまずこれにて報告は終了。振り出しに戻って、スタートからまた進まねばね。

ミャンマー竹紙探訪の旅 その6

2月10日 インレー湖をめざす

ローカル長距離バスでいったんマンダレーに戻り、インレー湖を目指す。
なぜインレー湖行きが決まったかといえば、NORIKI日本語学校より「インレー湖近くで紙を漉いているところがある、竹紙ではないか?」と言う情報が入ったからだ。それに「ミャンマーに来たら、やっぱりインレー湖は見たほうがいいよ」とチョーさんも言うので、またまた手配をお願いして、マンダレーから車でインレー湖を目指すことになった。

車とドライバーさんの他、ウーさんという通訳ガイドさんにも同行していただく。
基本的に私たちの旅は、いつも個人旅行のバックパッカーで、なるべくローカルな乗り物を使用、泊まり先も予め決めずに現地調達、自由に行動する貧乏旅行を旨としているが、紙漉きの調査では、現地の言葉が自由に喋れる人が必須になることが多い。だいたい紙漉き場はどこも田舎で英語なんか通じないことが多いし、詳しい内容や専門的なことを突っ込んで聞こうと思うとき、身振り手振りや互いのつたない英語力では、思うところが聞ききれず伝えきれず悔しい思いをすることもある。だから、これだけは必要な贅沢と思いお願いしている。

通訳ガイドのウーさんは、英語日本語の通訳やガイドの仕事をしている人だが、なんと人形遣いなのだそうだ。ミャンマーの伝統的な人形を操るそうで、日本にも人形公演に来たことがあるという。
それを聞き、是非にとお願いして、ウーさんの操り人形を一体、車に同行してもらうことにした。
ドライバーさんは、先日紙漉き場に行ったときと同じ人だ。ずっと後日にわかったことだが、彼はNORIKI日本語学校の日本語教師のモーさんのお兄さんだった。車もお兄さんの車だったようだ。すごく車の運転がうまく、車もきれいで、頼りがいがある感じの良い好青年だとは思っていたのだが、そんなことはつゆ知らず、、。
ああ、ほんとにNORIKI日本語学校の皆さんにはお世話になりました!感謝の気持ちでいっぱいです。

ピンダヤの紙漉き場

途中、すごい山道のヘヤピンカーブをつぎつぎ曲がり、高い峠を超えながら、いくつもの街を通り過ぎて、午後3時過ぎにピンダヤの紙漉き場に到着する。
が、残念なことに、ここで作られていたのはコウゾの紙で、竹紙ではなかった。
もう一軒ヘーホーの空港近くにも紙漉き場があるというので立ち寄ってみるが、どちらも同様なコウゾの紙のみ。竹紙はまったく作られていなかった。

ああ、時間をかけてやってきたのに残念、、、という思いはあったが、せっかくの出会いなので、紙づくりの様子を見せてもらう。

日本の楮の繊維とよく似たような樹木繊維の乾燥したものを煮て潰している。
「これはどんな植物の繊維ですか?」と聞くと、紙を漉いている女性が「この木の皮よ」とすぐ後にある大きな木を指差す。「何の木?」と聞くと、ウーさんは「桑の木」だという。確かにコウゾはクワ科の木であるのだが、私が知るコウゾはこんな大きな木ではないので、ちょっと幹や葉の様子も違うような気がする。


別の欧米人グループが見学に来て、ガイドをしている白人女性は英語で「リンデンバウム」と説明している。ということは、これは菩提樹なのか?でも菩提樹にはクワ科のインドボダイジュとシナノキ科のボダイジュがあるとも聞く。ウーさんはあくまでこれは「リンデンバウム」ではなく「桑だ」というのだが、、、ちょっと正解はよくわからない。
このへんのところは、現地の説明だけではしっくり来る答えが得られなかったので、コウゾや桑に詳しい方にまたご意見を聞きたいと考えている。

 

紙の漉き方自体は、竹の紙やわらの紙と同じように、布を貼った漉き枠を水に浸けて、そこに紙料を溶かし広げていく溜め漉きだ。その中に赤い花びらを入れたりしながら、紙を漉きあげていく。
漉いた紙は、ノート風の冊子にしたり、竹の骨の傘に貼ったり、ときおり訪れる欧米人観光客用のお土産などに作られているようだった。

 

その後、時間は押していたが、ピンダヤの洞窟寺院というところに立ち寄り、夜8時頃にインレー湖に到着した。

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ピンダヤは、自然の鍾乳洞の中に数千体の仏像が安置されている洞窟寺院で、私たちは予備知識もなく大して期待していなかったのだが、迷路のような洞窟をどんどん進んでいくにつれ、そのすごい規模に圧倒された。
先日のボーウィン山といい、このピンダヤの洞窟寺院といい、ミャンマーにはまだまだ知られていないすごい名所がたくさんある。びっくり仰天だ。

2月11日 インレー湖の水上生活

インレー湖はミャンマー北部にある湖で、その地域の人々は、湖の中の浮草の上に家を建て水上生活をしている。浮草の上といっても、地面は結構しっかりしていて、家も建ててあるし、木も生えていて、畑も耕作されている。

 

ボートに乗って、インレー湖の暮らしを見て回る。湖上は風が吹き渡って涼しい。小舟が行き交い、漁や投網をする人々も見られる。あたりまえのように小さな子供だけで小舟を漕ぐ姿も見られる。畑にはトマトがたくさん実っている。天然の水耕栽培?で水やりの必要もないのかな。

家やホテルも建てられていて、すべての暮らしが湖上で成り立っている。ただ、上水も下水もそのまま湖上へ流れているので、人や観光客が増えるにつれ問題になっていくだろうが、、。

いくつかの浮島に上がらせてもらう。

蓮の繊維で手織りをしているところもあった。蓮の茎からフキの筋を取るように細い繊維を取り出し、つなぎながら糸にして、手織りをしていた。気の遠くなるような作業だが、日本の苧麻や芭蕉布なども同様な作業だから、昔はどこでも皆が身近にある素材を活かしつつ、そうした作業をして布を織ってきたのだと思う。

鍛冶屋、木工、漆、葉巻、銀細工など、どこも暮らしに必要なものを一から十まで手作りしている様子が見られる。もちろん元は生活必需品であるが、今はそれぞれ観光客相手にお土産を売っていて、ボートの漕手は観光客をそうしたスポットにつぎつぎ連れて行く仕組みになっているようだ。

湖上にはりっぱな寺院もある。訪れた寺院のご本尊は、みなの厚い信仰のおかげで、金箔をつぎつぎ貼り重ねられて原形を失い、まるで金の団子そっくりの姿になっていた(手塚治虫の漫画に出てくる団子マークそっくりだと思う)。1900年代の古い仏像の写真が飾られていたが、まったく面影がなかったので、ちょっと笑ってしまった。

こうした金箔をつくるために、すべて竹紙が必要とされているわけだから、竹紙の需要は当面十分にあるということなのだろう。

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ここは本尊の周りは女人禁制で、御本尊には女性が手を触れてはいけないそうで、T氏に代わりに金箔を貼ってもらった。

寺院の境内で一休みしたときに、ウーさんに人形を操るところを少しだけ見せてもらった。
ミャンマーでは、お寺での法要行事のときに一晩中伝統的な操り人形を演じる習慣があるのだそうだ。内容はお釈迦様の物語とかラーマーヤナとか、宗教的な物語が多いとのこと。
持ってきてくれたのはミャンマーのプリンスの人形で、手足、頭を10本あまりの糸で操る。日本の竹人形を見てもいつも思うことだが、人形遣いの手で人形が動き出した途端に、命が吹き込まれたように生き生きと動き出すのがすばらしい。

周りにいた外国人たちも、思わず近寄ってきて、ちょっとしたパフォーマンスの披露にもなった。
いつか一晩中人形が操られるという法要を見てみたいものだと思う。

午後にはウーさんおすすめの古いパゴダにも連れて行ってもらう。
バガンをつくった王様が同じ時代に建てた仏塔だそうで、すでに朽ちかけているものも多い。塔の中から木が生え、レンガは土と化し、人の作ったものが自然に還っていく様をみるようで、崇高さも感じる。

この日はボートから沈む夕日を眺め、1日インレー湖で過ごした。

→その7へ続く

ミャンマー竹紙探訪の旅 その5

2月8日 ローカルバスでモンユワへ

朝7時、ホテルを出てバスターミナルへ。8時のバスでモンユワへ向かう。
完全なローカルバスで、車内は補助席まですべて満席。シートも狭く、T氏と二人がけでもお尻がきついところへ、隣の補助席には体重100kgはあると思われるおじさんが座り、互いに肩をすぼめてちょっと斜めに座りながらの4時間の道のり。

すごい農村地帯を延々走ってモンユワへ。街はいわゆる地方都市という感じで観光的な雰囲気はなし。マンダレー同様バイクと車でごった返している。

ここに来た目的は、ここから少し郊外に行ったところに、実用的な漆工芸の村があると聞いていたから。タクシーを頼みチャウッカに向かう。
ここは木材産業も盛んなところで、道端には大木の街路樹が並んでいる。街路樹の木陰には、誰でもが水を飲めるように、水の壷とコップが置かれているのも見かける。木材の集積所も所々にある。

途中、地元の寺院に立ち寄る。
外国人など訪れることもなさそうな地元の寺院だが、ミャンマー人の参拝客はいっぱいだ。

その信仰心の厚さには驚かされる。寺院の入口で靴と靴下を脱ぎ、裸足で寺院に入る。老若男女誰もが床に座り、祈りを捧げる人であふれている。仏像に金箔を貼っている人も大勢いる。仏様は金箔をつぎつぎ貼られて金ピカでコテコテになっていて、ちょっと笑えるが、それでもその祈りの心には打たれるものがある。

バガンの街は、昔の人々が建てて今に残る遺跡で、それはそれで素晴らしかったが、ここはまた異なり、現代に息づく人々の祈りの心と生きる熱気にあふれている。

寺院の門前は、まるで浅草の門前市のようで、野菜や果物、お菓子、雑貨など所狭しと売られていて、お参りに来ることが楽しい旅でもあった昔の日本の姿とも重なるようだった。ここに立ち寄ってよかったなと思った。

 

漆工房にて
チャウッカの村にある漆工房を訪ねる。
働いているおじさんが丁寧に作り方を説明してくれる。と言ってもほとんどミャンマー語のみなので、詳しいことはわからないが、作る工程を見ながらなので、大体はわかり合える。

面白いのは、木地の作り方。
日本では木を削りながらベースの木地を作ってそれに漆を塗っていくが、こちらではほぼすべて竹でひごを作り、ベース(竹地?)をつくっていくのだ。


細く割いた竹ひごをぐるぐる巻き込む形で、茶碗も皿もベースが出来る。それに漆を塗っていく。
バガンのものはデザイン的にもちょっとおしゃれで装飾的なものが多かったが、こちらは籠や茶碗や頭にかぶる傘など、おおむね実用本位なものが多い。

驚いたのは、漆を塗っている様子を見せてもらった時、おばちゃんが手をベタベタにしながら、素手で漆を塗っていたこと。私など手のどこかにちょっとうっかり漆が触れただけでもかぶれることが多いので、その光景にのけぞりそうになる。
「そ、そんなに手で触って、だ、大丈夫なの?!」と思わず日本語で声をかける。
おばちゃん、ニッと笑って「な~に、こんなの洗えば大丈夫よ」とミャンマー語で返してくれた。

工房のおじさんが「そうそう、前に日本人が来たことがあるよ」みたいなことを言って、奥の部屋から何かを持ってきた。覗き込むと、それは名刺で、なんとそれはテラで毎年木工の作品展を開いておられるかつみゆきおさんの名刺だった。ご丁寧に名刺には写真も印刷されていて、にっこり満面の笑みを浮かべたかつみさんの顔写真と思いがけず対面した。
まあ、かつみさんからは、2年ほど前にこの地域でミャンマーの漆を買ってきたという話は聞いていて、だから私もその地域を訪ねてみようと思ったのだが、まさか、行き当たりばったり訪れた村の小さな工房で、かつみさんの名刺を見せられるとは、世界は案外狭いのか?

 

2月9日 ボーウィン山の磨崖仏

モンユワからチンドウィン川を下り、車で1時間ぐらい走った山の中に、ボーウィン山という磨崖仏の寺院があると聞き、そこへ向かう。
山全体が神格化されていて、その中にいくつもの洞窟寺院や磨崖仏が点在している。一体誰がどうやってこんな山の中に寺院をつくったのだ?!世界遺産になってもおかしくないようなこんなすごいところが、山奥にひっそりあるなんて!!と驚愕する場所だ。

勝手に見て回ろうかなと思っていたのだが、地元の若い女の子が有料ガイドを務めてくれると言う。いつもはそうした誘いには乗らないことが多いのだが、ふとそれもいいかなと思い、OKする。

彼女の名前はカイマ。この地で生まれ育ったという。高等教育を受けたとは思えないが、英語はなかなか上手だ。
しかも、ここは彼女にとって庭のような場所らしく、どこにどんな磨崖仏があるかもよく知っているし、歴史やそこに描かれている仏画や壁画の内容まで、詳しく説明してくれる。
ここには磨崖仏が40万体もあるのだそうだ。

山にはニホンザルそっくりの野生ザルが生息していて、時折餌をねだってついてくる。
ここには4グループの猿がいて、ボス猿が統率しているの。ほら、あれがボスよ、と教えてくれる。嵐山のモンキーパークみたいだ。

カイマと一緒に山を上り下りしながら、いくつもの崖や洞窟に彫られた磨崖仏を見て回る。

ある壁画には、お釈迦様の一生を描いた絵が描かれていた。
カイマが話す。
「お釈迦様はね、プリンスとして何不自由のない暮らしをしていたの。お金もある。お世話をしてくれる人もたくさんいて困ることもない。でも、毎日が退屈で退屈で、生きる目的もないの。彼は旅に出た。たくさんの人に出会い、いろいろな修行をしたわ。それでも何か納得できない、、。ある日彼は菩提樹の樹の下に座り込んだの。ずっとずっと座っていたわ。自分の人生や生きる目的はなんだろうって考えながら。そして、そこでとうとう悟りを開いたの」
彼女なりの解釈だったかもしれない。でも、彼女の語る物語は自分のことを語るように自然で、自分の中に溶け込んだ物語を語るようで、私はなんだかちょっと感動してしまった。これまでに誰かからこんなふうにブッダの一生を語ってもらったことはなかったなあ。

この土地に生まれ育ち、今もここに暮らす彼女にとって、この山は愛すべき自分の場所だ。だからこそ、そのガイドにはとても説得力がある。
釈迦の悟りの話、ここに寺院をつくったキングの話、「ほら見て、この仏様、すごく美人でしょう?」「さあ、ここが一番私の好きな景色よ!」そんなふうに案内してくれた小高い崖の上は、見晴らしが良く、周りの集落がよく見渡せた。「あそこが私の生まれ育った村なんだ」

生き生きと語りながら案内してくれるカイマをみていて、彼女にガイドを頼んでほんとに良かったなと思った。ミャンマーって公の学校教育がなかなかいいのかも。
「さあ、ここからは私のお気に入りの寺院の始まりよ!」

私達は時がたっても互いを思い出せるようにと一緒に写真を撮った。
帰る前、私が彼女の英語力やガイド力を褒めると、彼女はちらっとつぶやいた。
「ホントはね、私、できれば自分と同じようなブラウンカラーじゃなく、もう少し色の白い人種と一緒になれたらいいなあと思うこともあるの。でも、美人じゃないし、きっと無理だと思うけどね」
カイマ、あなたは賢いし、今のままで十分に生き生きと魅力的。自分の生まれ育った場所に誇りを持って、しっかり前を向いて、これからも自分の道を進んでいってね!心からそう思った。

その6へ続く

ミャンマー竹紙探訪の旅 その4

2月6日 バガンへ

一旦NORIKI日本語学校の皆さんと別れ、ミャンマー屈指の仏教聖地、バガンを目指す。今日は船でエーヤワディー川を1日かけて川下りし、バガンに入る予定だ。

朝5時前に起きて荷造りをし、6時過ぎにホテルを出て桟橋へ。

出航時間はちょうど日の出と重なり、マンダレーの寺院や家並みがシルエットになって美しく浮かび上がる。

 


海のようにゆったりした大河エーヤワディー川からは、つぎつぎと川岸の寺院や仏塔が現れては過ぎてゆく。牛が草をはんでいる牧草地や、川岸で水遊びをする子どもたち、行き交う小舟なども見える。最初は過ぎゆく光景がめずらしく、船べりから眺めては「わあ~!」といちいち感動していたが、次第に同じ光景の繰り返しで眠くなってしまい、そのうち爆睡してしまった。

T氏はヘッドフォンで音楽を聞きながら、周りの景色を眺め、時折iPhoneで地図や位置情報を確かめながらごきげんだ。彼は地図が大好きなのだ。

川下りの船は、長距離バスよりは少し価格が高いが、車のように埃だらけの悪路を揺られることもなく、眺めもよく、朝食も昼食もついているので、そう高いとはいえないと思う。何しろゆったりと気持ちがいい。ラオスの川下りでもそう思ったが、この地域の人々にとって、船は重要な交通、運輸、生活の道であったことがよく分かる。

夕方4時着と聞いていたが、乾季で浅瀬を避け、ジグザグ走行したためか、やや遅れて、夕方5時頃バガンに到着した。

NORIKI日本語学校のチョーさんが予約してくれたルビートゥルーホテルに入る。離れ形式のコテージでリゾート風な趣。欧米旅行者が多く、マンダレーとはまったく雰囲気が異なる。

ミャンマーの漆をみる

マンダレーでガイド同行してくれたロンロンさんから、バガンのおすすめレストランの名を聞いていたので、夕食を食べに行こうとタクシーに乗る。と、タクシーのお兄ちゃんが「シンカバ村の漆は本物だ、ぜひ見るといいよ」と言う。行く途中だと言うので、寄り道することにした。

立ち寄った店は製作も販売もしているところで、2階では製作もしていると言うので、見学させてもらう。

中学生ぐらいの女の子たちが、5~6人、漆に彫り物をしている。むしろのような竹ござの上で、竹ひごで木地を作っている子もいれば、塗られた漆から下地の色を彫り出す形で模様を描いている子もいる。女の子たちは見学者の私達にも笑顔で、可愛くやさしい子たちだったが、時間は夜の8時過ぎ。ミャンマーの女の子たち、ちょっと働かせられすぎではない?

1階の店にもついつい見入ってしまう。
日本の漆とはまた少し違って、色を重ねて塗って、上の漆を削りながら下地の色を見せて模様を描いているものが多いが、それもまた美しい。手間のかかる作業だと思う。

予定にはなかったが、思わずお弁当箱のような漆塗のお重を買ってしまった。

マンダレーで交通渋滞する道路にいたとき、自転車やバイク通勤の人々がお弁当箱をぶら下げているのをよく見かけた。現代で使われているものはステンレス製が多かったが、形としては同じ。昔は木や漆製だったのだろう。段重ねのお重タイプの弁当箱で手提げ部分がついている。一番上にちょこんと帽子のような湯呑がついているのもかわいい。

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ああ、つい手が伸びてしまった。(その後、日本に戻ってからも、このお弁当お重はお気に入りで、ことあるごとに愛用している)

2月7日 バガンの仏教遺跡をめぐる

バガンは11世紀ビルマ族最初の王朝が開かれた場所で、壮大な平原に数千とも言われる仏教遺跡が点在している。カンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロブドールとともに、世界の三大仏教遺跡といわれているそうだ(私達がミャンマー訪問後の2016年8月に大きな地震にも見舞われ、被害を受けたと聞くが、その後修復作業も進み、2019年ユネスコの世界遺産として登録された)

この日は、Eバイクというレンタルの電動バイクを借りて、2人乗りでバガンを回ることにした。

なにせ広い平原の中に、大小様々な寺院や仏塔が無数に点在しているので、とても歩いて全てを見ることはできそうにない。かといって、タクシーやバスでは小回りがきかず、やはり、好きな場所をあちこち自由に回るにはこれしかない、ということでバイクを借りた。

しかし、私はペーパードライバーだし、T氏ももう何十年もバイクなんて乗ったことがない。「な~に、大丈夫や」と言ったものの、日本のように舗装の行き届いた道ではなく、砂だらけの未舗装道路。試しに走ってみると、砂に足を取られて、T氏、あっという間にころんだ。

まあ、下は砂地だったので、けがをすることはなく、その後も1~2度砂に足を取られて転倒の危機はあったものの、なんとか快適に回ることができた。でも、ヘルメットもなく、どうみてもアブナイ中年夫婦の二人乗り。「いいんか?」という感じではあったけれど。

祈りの心

ミャンマーは敬虔な仏教国だ。現在もどんな街にも農村にも寺院があり、そこで祈り寄進をする人々の姿をたくさん見かける。バガンには昔も今も変わらないそうした人々の祈りの心が、遺跡となって数多く残っている。

王様や貴族が寄進して建てたのであろう立派な寺院や仏塔もあれば、庶民が家族の安寧を祈って建てたのであろうささやかな仏塔もある。今なお信仰を集めているものもあれば、訪れる人もなく崩れかかっているものもある。広い平原の中に無数に建つそうした仏塔を見渡していると、これらを建てた多くの人々の祈りの心が迫ってきて、ふと胸が詰まる思いに駆られる。

バガンの中でも一番荘厳で美しいと言われるアーナンダー寺院にお参りする。観光客も多いバガンだが、地元ミャンマーの人も数多く訪れていて、みな、本堂に安置される仏像に熱心にお参りしている。

寺院の中では誰もが靴を脱いで裸足となり、膝をつき手を合わせて拝礼する。そして、入り口や本殿近くには、金箔が束になって売られていて、祀られた仏像に金箔を貼って祈る習慣がある。
このために金箔がたくさん必要で、そのために竹紙が使われているのだ。

私も金箔を買って観音様に金箔を貼らせてもらう。
あとになって、本来は男性がするものであると聞いたが、ここでは女性である私が金箔を買っても何も言われることはなかったし、観音様に小さな金箔を貼る私を咎める人はいなかった。

この行為を行うために、この国には竹紙が存在していたのだなあ、と改めて思う。

私はそれを追い求めてここまでやってきた。ミャンマー竹紙の話を聞いてから15年余り、待っていた長い時間と遠い道のりは、この時のためにあったのだ。
そんな感慨が胸に迫ってきて、観音様の手に小さな金箔を貼る時、思わず涙がこみあげた。
古から今まで、無数のミャンマーの人々が祈る心と、自分のちいさな祈りが、合わさって溶けていったように思えた瞬間だった。

この日は1日中あちこちの寺院や仏塔を巡った。

裸足で高い階段をよじ登るようにして塔の上にあがり、広がる景色を眺めた。人気の少ない仏塔では、勝手ながらちょっと座禅も組んでみた。一番気に入った見晴らしの良い寺院の仏塔の上で夕日を眺めることにした。次第に落ちてゆく夕日を眺め、日が沈むまでゆっくり時を過ごした。

ビルマの竪琴

1日じゅうバイクで動き回り、砂だらけになったので、夜はゆっくりホテル内のレストランで食事することにした。

室内には心地よい音楽が流れている。「これ何?」とホテルの人に聞いてみると、ミャンマーの伝統楽器の竪琴ですよと教えてくれる。ミャンマーの竪琴?へえ~、そうなんだ。えっ?あ、そうか!それ知ってる!「ビルマの竪琴だ!」と気づく。子供の頃児童文学で読んだっけ。

ホテルの人とそんな話をしていたら、ホテルの人が、パソコンをもってきて古い日本映画の画像を出してくれる。市川崑監督、三國連太郎主演の『ビルマの竪琴』だ。

中年以上の日本人なら、内容は忘れていても、この題名には記憶があるはず。

第2次世界大戦中にビルマに渡った日本軍兵士が、終戦後も現地に残り、ビルマの竪琴を弾くお坊さんになってゆく、、そんな話だったような、、。

ああ、ここは戦地となった場所だったんだなあ。国名がミャンマーと変わり、アウンサンスーチーさんや軍事政権の話は近い歴史として頭にあったが、日本人にとってもミャンマー人にとっても、ここは戦場でもあったのだ。そういう歴史のつながりもあったのだった。

朝、ホテルの庭で朝食をとっている時、すぐ脇に小さな植樹と記念札を見つけた。元日本人兵士の遺族会がここを訪れた記念に植えたらしい植樹だった。

日本軍による史上最悪の作戦と言われるインパール作戦は、ビルマからインドに至る道がその舞台で、作戦地は白骨街道と呼ばれるほど多くの死者が出て悲惨な地と化したと聞く。この植樹は生き残った僅かな人々やその遺族が、その足跡をたどり慰霊するためにこの地を訪れ、記念に植えられたものなのだろうと思った。ささやかな植樹だったが、そこから歴史の糸をたどることができた。忘れてはならない。

→その5に続く

ミャンマー竹紙探訪の旅 その3

2月5日 竹紙づくりの家へ

朝9時、チョーさんが車を手配してくれて、マンダレーの郊外、ザガイン方向へ向かう。ドライバーさんの他、NORIKI日本語学校の卒業生でもあるガイドのロンロンさんも一緒だ。

マンダレーから車で1時間ほど走り、ザガインからさらに未舗装のガタゴト道を20~30分ほど走った農村に竹の紙をつくる家があった。


家族経営で、一家みんなで竹紙をつくっている。
ご主人、奥さん、、息子さん、娘さん、妹、おばあちゃんなど、みんなが集まってきて、私のつくった竹紙も見てもらう。

びっくりしたことに、彼らが言うには、私の訪問する15年ほど前にもアメリカ人の女性が竹紙に興味を持ってここを訪ねてきたことがあったという。その時の記念写真が家に残されていた。
そして、さらに驚くことには、その女性は、私が寺町二条でテラをやっていた頃、店に訪ねてきてミャンマー竹紙の話を教えてくれたアメリカ人男性のお母さんで、私もまったくそんなことは知らずにいたのだが、偶然にも数年前西陣テラでお目にかかり、たがいに紙談義におおいに花を咲かせたロナさんというアメリカ人女性だった。
入国後3日目に、突撃取材で訪れたミャンマーの片田舎の農村で、いきなり求めていた竹紙の郷に行きつき、ましてや15年間心に温めていた竹紙情報の提供者のお母さんと同じ家を訪れるなんて、何という偶然!なんて運命は不思議なんだろう!

ここに来て一番先に気づいたのは、またまた音だった。

どこから?と思ったら、家横の建物の狭い階段を降りた穴蔵のようなところで、8~10人位の10代前半くらいの女の子たちが、こん棒ですごい音を立てながら竹紙を叩き続けていた。

布と水を使って、「シカの木」と呼ぶ柔らかい木の棒で竹紙をひたすら叩く。
時々棒の先にココナツオイルを少しだけ付けて、また竹紙を叩く。
時々布で水気を拭いてはまた叩く。朝から晩まで叩くそうだ。

竹は、以前は近くのものを切って使っていたが、今は周りにはあまりなくなってしまったので、マンダレーの北の方から運んできているとのことだった。

 

 

紙料の作り方は、若竹を切って壺に詰め、溝を掘って木を燃やした上に壷をおいて茹でる。壷には若竹と石灰が入っていて、この壷を3年間置いておく。基本的に蓋をしておくが、時々雨にも当てる。

それを5日間煮て、水で洗い、粉挽きと同じように石臼で挽いて潰す。今は、石臼は動力も使っているとご主人が説明してくれた。

息子さんに紙漉きのやり方を見せてもらう。彼は16歳から27歳の現在まで、紙漉きをやっているそうだ。

 

紙料は小さなツボに入れて撹拌し、水槽に置いた漉き枠の中に紙料を溶かして、手で撹拌して伸ばしていく。木の棒で表面をなめらかに整えて、少しずつ水が切れるのを待ち、少しずつ静かに漉き枠を持ち上げていくのが微妙な技だ。

漉き枠には目の細かい木綿がピンと張られている。
干すときは、黒い綿布(巻きスカート・ロンジーの古くなったもの)で裏から水切りを2~3回して、枠ごと干す。
しっかり日に当てて干しあげたら、端からスイ~ッと剥がしていく。

均一な薄い黄色い色の竹紙が漉き上がる。

それを正方形に切って、叩いていくのが、先の少女たちの仕事なのだ。彼女たちは雇われている村の子たちなのだろうと思う。

この家では、キングガロンの他にも、金箔工房に2箇所ほど竹紙を卸しているそうだ。家構えはこの辺の農家としてはなかなか立派で、私がすこしばかり竹紙を購入させてもらった値段からしても、竹紙はまずまずの現金収入となっているのかなと推察した。

家の壁には、子どもたちの得度式(ミャンマーの男子は一生に一度はかならず得度をする習慣があり、これにはかなりのお金がかかるのだそうだ)の華やかな写真が飾られていた。

 

ご一家に茹でとうもろこしをごちそうになり、記念写真を撮ってこのお宅を後にした。

 

わらの紙づくりをみる

竹紙づくりの家から15分ほど行ったところに、わらで紙を漉いている家があると言うので訪ねてみた。こちらは素朴な農家である。

わらの紙は、稲を採った後のわらを干してから、50日間壷の水につけ、それを取り出して洗い煮る。柔らかくなったものをほぐし、それを足踏み式の臼でつく。

紙料には黄色い色の染料を混ぜる。
水槽に漉き枠を置き、紙料をとかし入れて水切りして漉きあげて干す。

木枠に張られた布は、大判の布巾のような綿布で、竹づくりに張ってあったものよりは目が粗い。ココナツオイルを塗って叩くといった工程はない。

パッと見ると、漉き終えたときは概ね似たような紙のように見えるが、明らかに竹の紙のほうが上等と捉えられているのがわかる。紙の値段も10倍ほど違うし、つくっている人のプライドにも差があるのを感じる。

昨日行ったキングガロンでも、わらの紙はたくさん束にしてクッションのように使われたり、出来上がった金箔の間紙に使われていたが、竹の紙は金箔が直接に接する部分の上下1枚ずつしか使われていなかった。

あぶらとり紙を考えると、金箔をつくる際に竹紙の吸湿性の良さが大きな意味を持つのかなと思えるが、ココナツオイルを塗ってあれほどまでに叩くのは、金箔を伸ばすときに丈夫で破れないようにすること、紙の密度を高めてなるべく平滑にして、金箔がむらなく薄く伸ばせるようにすること、などの重要な要素があるのではないかと考えられた。

これまで中国各地の竹紙、ラオスの少数民族の竹紙などをみてきたが、ミャンマーではそれらともまた違う用途と品質の竹紙に出会うことができた。

この日までに今回の旅の半分以上の目的が叶えられたのではないか、というような濃厚な1日であった。

その4に続く

ミャンマー竹紙探訪の旅 その2

(その1から続く)

2月4日 NORIKI日本語学校との出会い

今回の旅の目的は竹紙だ。
ミャンマーで竹紙が作られ使われているらしいということは、ずいぶん前に聞いたことがあった。テラを始めてしばらくした2000年頃かもう少し後だったか、店にたまたま立ち寄ってくれたアメリカ人のお客さんが、ミャンマーで撮ってきたというビデオを見せてくれたことがあったのだ。はっきりしたことは覚えていなかったが、ミャンマーの寺院では金箔を使う習慣があり、それをつくる際に竹紙を使うというような話だったと思う。

竹紙の専門店と名乗ったからには、国内外を問わず、どこで誰がどのような竹紙をなんのためにつくっているのか調べようというのが、私のライフワークでもあり、今回はそのための旅であった。
長い間心の片隅にあったミャンマー竹紙を訪ねる旅の決行であった。

しかし、竹紙をどこでどのようにつくっているのか使っているのか、細かな情報は持ち合わせていなかった。唯一手がかりとしていたのは、マンダレーに金箔をつくる工房があることだった。それを頼りにマンダレーに直進してきた。

ミャンマーは、現在、日本との交易が盛んになりつつあり、マンダレーには大学に日本語学科があり、日本語学校もいくつかあるという。まず、そうしたところを訪ね、日本語のできる人から竹紙情報を得ようと考えた。もしかしたら、日本語ガイドを務めてもいいなんていう学生が見つかるかもしれないなどとも思いながら。

朝からマンダレー大学近くにいくつかある日本語学校のまわりを歩いていると、「NORIKI日本語学校」という看板があった。NORIKIって何?経営者の名前かな?もしや日本人かも?
飛び込みで中にはいってみる。

モーさんというミャンマー人女性の先生が優しく対応してくれる。校長先生のチョーさんや事務方のトーキョーさん?も出てきて親切に対応してくれる。

NORIKI日本語学校には、日本人はおらず、校長先生も先生方も全員がミャンマー人だった。チョーさんもモーさんもマンダレーの大学で日本語を学び、長期の日本滞在などの経験はないにもかかわらず、日本語は流暢だ。教室も見学させてもらったが、生徒たちは若く活気にあふれていて、みなやる気いっぱいだ。

突然訪れた変な日本人夫婦にも「これが生の日本人か」というような旺盛な好奇心を感じる。日本企業で働いたり、日本語を使って仕事の幅が広がることに大きな意欲を持っている様子が感じられた。

ちなみに「NORIKI日本語学校」の「NORIKI」は日本人の名前ではなく、「やる気、乗り気」の意味のNORIKIであるらしかった。

竹紙の金箔工房へ

午後、NORIKI日本語学校の校長先生、チョーさんに案内してもらい、「キングガロン」という金箔工房に出かける。

トンカン、トンカン、店の外からリズミカルな音が響いている。


工房に入ると、入れ墨をしたガタイの良いお兄さんたちが上半身裸で木の棒を振り下ろしながら金箔を叩いている。力仕事だ。額に汗しながら、男性たちが何人もでこん棒を振り続ける。そしてその音が交互に響き渡り続けている。

トンカン、トンカントンカン、トンカン、、、、。

金箔の間に挟む紙が竹紙だと聞いていたけれど、現場で聞いてみると、束にしてたくさん挟んでいる紙はわらの紙で、金の直接当たるところに挟んでいる紙だけが竹紙だという。でも、その紙は油が染み込んだ薄くて黄色いパラフィンのような紙で、「これが竹紙なの?」と???が増える。

まあ、日本でいうところのあぶらとり紙も金箔を叩く間に挟む紙だったというから、それに近い感じなのかな。それにしても私達の竹紙とは大いに異なる。

 

 

で、「その竹紙はどこでつくっているの?」と聞くと、マンダレーの郊外の方に、竹紙を漉いている場所があり、そこから仕入れているとのことだった。ぜひそこに行ってみたいと伝えて、詳しい場所を聞いてもらった。

大変ありがたいことに、チョーさんが手配をしてくれて、翌日竹紙をつくっている場所に連れて行ってもらえることになった。

やはり、現地に来て、足で回るといろいろな情報が手に入る。それにしても、よい出会いがあって本当に幸運だった(その後もNORIKI日本語学校の方々には今回の旅で大変お世話になった。見ず知らずの飛び込みの日本人にこれ程までに親切にしていただき、心より感謝している)

→その3に続く 

 

 

ミャンマー竹紙探訪の旅(2016年2月 その1)

現在は2020年1月6日です。この4年近く、詳しい報告をすることができなかった2016年のミャンマー竹紙の旅のレポートを、今ようやくアップすることにします。この4年間にさまざまなことがあり、なかなか先に進めませんでしたが、ようやく気持ちにも時間にも少し余裕が生まれ、これをアップすることで、振り出しに戻ったように、そこからもう一度駒を先に進めてみたいと考えています。
当時、旅先で記していた日記に基づき書き進めていきます。長いレポートになるかもしれませんので、どうぞお暇な時間にお読みください。

2月2日 出発まで

PM7時 自宅出発。
留守を頼んでいた川崎在住の姉が、どこでどう食い違ったのか、私達の出発日は明日だと思っていて、自宅出発時間の1時間前に京都着。我が家隣には90代の義母がいて、一人では置いておけない状況。しかも、姉を駅に迎えに行っているちょっと目を話したすきに、義母は鍋を焦がし、気づくと家は煙だらけ。自動警報機が働き、すべてのガス機器が元から止まってしまっているというちょっと危機的な状況もあった。

だいたい、出発までのここ1ヶ月はかつみゆきおさんの本づくりで、やってもやっても終わりが見えず、何日も徹夜つづき。私も静岡のかつみ工房にも足を運び、かつみさんも4泊もわが家に泊まって、夜中の写真追加撮影もあったりして、いくつもの波を乗り越え、なんとか必死で入稿までこぎつけた。
でも、もうこっちのものだ!ついに船は出たのだ!!


2月3日 バンコクからミャンマー・マンダレーへ

AM5時。夜明け前のタイ・バンコクに到着。
長い通路を歩いてバンコクエアウェイズの乗り継ぎカウンターへ移動。

目的地マンダレーへの出発は12:05なので時間ありすぎ。かと言って外に出るにはちょっと時間がないので、エコノミーでも入れるラウンジを見つけ、そこで無料のお茶や小さなサンドウィッチ、粽みたいな蒸し菓子、お煎餅などあれこれ食べる。

が、まだまだ時間はある。そこで空港内のラウンジや通路座席で思わず横になって寝ていたら、夫に「恐ろしすぎ~」と言われる。でも、国際線の通路でゴロゴロしながら、いろいろな国の民族衣装を着た人たちが行き交うのをみるのはいつだって面白い。(写真は私ではあんまりなのでT氏)

空港内でトムヤンクンを食べ、更に便は40分の時間遅れでようやくフライトとなる。移動バスの中で、ミャンマー人の小さな女の子が私に席を代わってくれる。おばあさんに見えたのかな。お礼を言うと、こんどはT氏の分まで席を代わってくれた。

ミャンマーの人の優しさに触れたようで嬉しい。子どもに良い教育がされている国なのかな、と思う。
飛行機は1時間遅れで離陸。

マンダレー到着

マンダレーの空港からタクシーで市内へ。
だだっ広い平原、知らない種類の木々、でも水田では田植えがみられ、牛が元気よく馬車仕立てで道を走る風景も見られる。
市内はトラフィックジャム。車、バイク、人、荷物が混沌と交差している。町は、どこがマーケットなのか、繁華街なのか、どれがなんの店なのか、パッとわからないかんじ。

1泊目だけ日本でネット予約しておいたホテルに入り、夕方爆睡。
夜になってからマンダレーの街を歩く。

混沌とした通りを歩くのは至難の業だ。車やバイクを避けながら必死で歩く。歩道らしきものはあるのだが、ボコボコの道で、あちこちにある下水溝は蓋が壊れて穴だらけ。下手をするとマンホールに落ちないかヒヤヒヤするし、アスファルトにボルトが飛び出していたり、石や砂利が凸凹あって、躓きそうになるし、ずっと下を向いて歩いていないと危険。

ライトアップされた美しい王宮と、そのすぐ横のまだ下水が出来上がっていない工事中の混沌とした道が対照的。

でも、人の悪さはあまり感じず、夜道もあまり怖くない。
若者たちは携帯ショップの前に群がるように集まり、おおいに賑わっている。今からどんどん街も変わっていくのだろうなあ。

夕食は町のレストランでミャンマー料理。

エビカレー、チキンカレー、カレーを頼むとライス、スープ、野菜、副菜がもれなくついてくる仕組みらしい。スープは豆スープ。野菜はウリに魚醤をかけて食べる。いんげんのピーナツあえは日本の胡麻和えにそっくり。こぶみかんの葉、キャベツ、カリフラワーや緑豆を茹でてごま油で味付けしたものなど、ミャンマーらしい味を味わう。

→その2へ続く  

2020年の始まりに

遅ればせながら、新年のご挨拶を申し上げます。
旧年中のご愛顧に感謝いたしますと共に、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

みなさま、良いお正月をお過ごしでしたか?
私は個人的には喪中の正月だったので、恒例の餅つきも行わず、のんびり静かな年の瀬を、、と思いきや、めずらしくも体調を崩し、年末に数日間寝込んでしまいました。年が変わるギリギリに起き上がることができるようになり、なんとか寝正月を避けることはできましたが、体のことなんか何一つ心配することのなかった、無茶をがむしゃらな気力と体力で乗り切っていた頃とはもうちょっと違うのかな、自分の体のことも自分で少しは気をつけねばなあ、と今頃になって思い至っている次第です。

思えば4年近く前、ミャンマーに竹紙探訪の旅に出かけましたが、帰国2週間後、夫が突然の病に倒れて一命をとりとめたものの、そのすぐ後に義母が大怪我で長期入院、二人の退院後は在宅介護の日々が続き、以後自分の目の前をかき分け進むのにいっぱいいっぱいでした。昨秋、義母を看取り10年余りの見守りと介護の日々にも一つの区切りがつきましたので、これからは少し落ち着いて、自分のすべきことなど考えながら進んでいきたいと思っています。

そんなわけで、まずは今年の始まりに、4年間ご報告することができずにいたミャンマー竹紙探訪のレポートを、4年ぶりにしてみようと思っています。今更?と言われるくらい時間が経ってしまいましたが、私の中では4年前に戻らなければ先にはつながらない感があり、まずはそこから始めてみたいと思います。

 

 

 

漆部作品発表会

今年のテラ漆部の締めくくりとして、今年つくった参加者の漆作品を持ち寄り、作品発表会を開催しました。

作品発表会と言っても、私達の漆は日常の暮らしの中で使っていくことを目的としているので、各自つくった漆が生きる形を考え、似合った料理も持ち寄り盛り付けてもらうということにしています。みんながつくった漆の器と様々な料理がテーブルに並びました!

煮物、汁物、揚げ物、寿司、炊き込みご飯、サラダ、発酵食品、和菓子、デザート系など、さまざまな食物が漆の器に盛り付けられて登場しました。なんとも贅沢な気分です!美味しいものが漆の器でさらに美味しく豪華に感じられ、二乗の喜びです。

私は今年、テーブルの塗りにも挑戦しました。料理が乗っているこの台も拭き漆したものです。
かつみゆきおさんにつくってもらったこたつの天板なので、なるべく木目を活かしたいと思い、こちらは薄めの色の仕上げに。

こちらはかまどを使わないときにテーブルとして使えるようにとつくった木の台。水気のものを置いても大丈夫なように、こちらは少し濃い色に仕上げました。

皆で漆のことや木のことなど話が弾み、来年は(大胆にも?分不相応にも?)手びき足びきの轆轤にも挑戦したいと大盛り上がり。さて、どうなっていくことでしょうか?
来年の漆部をお楽しみに。

 

 

 

竹紙干支はりこ注文受付中!

毎年恒例で作っている竹紙干支はりこが出来上がってきました!
来年は「子(ね)」ですね。向坂典子さんが陶器で型から作り、竹紙を重ね貼りして仕上げています。写真の白い竹紙は仲瀬俊平さんの竹紙、キナリの竹紙はテラの小林が漉いたものです。

ひとつずつの手作りですので、現在少しずつ在庫が増えてきていて、今月中には数が揃うと思います。
西陣テラで販売しています(1500円+税)が、ご遠方の方にはご送付もいたします。ご希望の方はどうぞお声掛けくださいね!