西陣テラ」カテゴリーアーカイブ

竹紙干支はりこ

毎年恒例で作っている竹紙干支はりこ。来年は「丑」(うし)ですね。

今年も、私が竹紙を漉き、向坂典子さんが陶器で型から作ってはりこにして出来上がり、販売しております。
ベーシックなキナリの他、柿渋竹紙なども出来上がって、色にも変化が加わりました。

こちらはキナリ竹紙。飾りのリースは近くの山で採ってきた蔓を丸めてみました。オレンジはカラスウリ。

少しずつ色の異なる竹紙はりこ。濃い茶色の分は、数年前に家の渋柿で自家製で作った柿渋を塗り、3年くらい柿渋竹紙の状態で寝かせてあったものです。最初はもっと薄い色だったけれど、時間を経て濃くていい感じの色に変化しました。

どれもひとつ1500円+消費税150円。西陣テラで販売中です(不在の折もありますので、お越し前にご一報ください)。ご遠方の方にはご送付もしています(送料200円〜)。
お電話、FAX、メールなどでお申し込みください。

コロナで揺れた今年でしたが、来年こそはもっと良い年になりますようにと願いを込めて手作りしています。

秋ですね

1o月になりました。朝晩はすっかり涼しくなり、ありがたい秋晴れの日が続いています。

先日は西陣テラの上に大きな虹がかかりました。

こんなに大きくてくっきりした虹は、あまり見たことがなくて、厳しかった今年の春から夏を辛抱したご褒美みたいで、なんだか嬉しかったなあ!

中秋の名月もありました。

こちらも久しぶりにこんなにくっきり冴え渡った月と火星を見て、清々しい気分でした。

 

コロナの頃に、必死で耕していた西陣の畑は、いまはすっかり朝顔に乗っ取られておりますが、こんな朝顔の海も嫌いではないのです。

でも、そろそろ秋の野菜を植えるとするかなあ。

 

竹紙の包装のこと、そして風呂敷

7月になり、巷ではレジ袋が有料化となりました。

テラではもともとプラスチックのレジ袋はあまり使っていませんでしたが、以前から、紙を作り売るものとして、売る紙と同じ位又はそれ以上のボリュームの包装紙や紙袋を使うことには、大いに矛盾を感じていました。同じ「紙」やのに、片方はお金を払って買ってもらい、片方はそれを包むためだけに買ってきて使い捨て? これどうなんやろ?って。

今回のレジ袋有料化を機に、テラの紙袋や包装紙のことも、少し見直してみてはどうかなあ?と思っています。

買っていただいた竹紙をそのまま持ち帰ってもらうことはむずかしいかもしれませんが、もし、風呂敷を1枚ご持参いただいたら、たいがいの形状の竹紙は包装できるのではないでしょうか?

風呂敷はすぐれものです。平たいものは平たく包めるし、丸めたものも潰さず包装可能です。使わないときは小さくたためてかさばりません。繰り返し使えます。
もちろん、どうしても必要な時もあるかとおもいますので、紙袋も用意しておこうと思いますし、ペラペラの竹紙には中に芯を巻くとか、大判の竹紙には厚紙を添えるとか、こちらでもある程度は考えたいと思います。ただ、わざわざ購入してきた紙や手提げ紙袋を、持ち帰りのためだけに消費することは、なるべく控えたいなあと思うのです(だって、自分で竹紙で紙袋や手提げを作ってみると、意外に紙の分量が必要なことに気づくんですよ)。

「あたりまえ」を少しずつ変えていきたいと思っています。どうぞ可能でしたらご協力お願いできれば幸いです。

竹を食べる

先日来WEB版企画展として、「世界の竹紙探訪の旅」を開催中です。前半の中国編1.2.3までをアップし終えましたが、これからラオス、ミャンマー編と国内の竹紙編を予定しています。

今日はちょっと閑話休題で、我が家のタケノコ料理をアップしてみようと思います。

毎年、4月には驚くほどたくさんタケノコを食べます。
もう30年にわたって京都西山の同じタケノコ農家からタケノコを購入していますが、今年はそれに加えて、新たな竹林のタケノコも分けていただきました。


大きな鍋でタケノコを皮がついたまま湯がき、取り出すときのなんとも言えないタケノコらしい香りが好きです。

最初はお刺身風にわさび醤油で食べ、お決まりのタケノコご飯と若竹煮、木の芽和え。それからちょっとバリエーションを付けて、チンジャオロースーや酢豚、バターじょうゆ炒めなんかも楽しみます。

最後は、だしを取った後の昆布やカツオと一緒に山椒の実をたっぷり入れて西山しぐれを作り、お茶漬けの友にしています。

友人から教えてもらったオリーブオイルとわさび醤油かけ、バター醤油炒めも美味しかったですよ。

みなさんはどんなタケノコ料理を食べていますか?

 

世界の竹紙探訪の旅 中国編その3

3.浙江省編

今回の旅の中心は東部の浙江省から江蘇省。昔から竹の産地として知られ、竹産業の中心地となっている場所である。2007年4月、竹紙はもちろん、自然の竹、竹の産業、工芸、研究など、さまざまな角度から現代中国の竹事情を見て回る旅に出かけた。

竹紙工場を見る

浙江省の富陽では竹紙の会社に行き、紙漉きの工程を見学させてもらった。富陽にはいくつかの竹紙工場があり、2年前に四川省や福建省で見たのと同様に、機械で潰した竹のパルプにネリを加え、簀桁を使った流し漉きでなめらかな半紙のような紙を手漉きしていた。

幅2メートルもある簀(す)を巧みに操って、次々と手漉きしていくベテランの職人さんの見事な手さばきにみとれる。1日に1000枚手漉きする人もいるというから驚きだ! 私など1日100枚が限界だ。手漉きの技と竹紙の伝統は健在だと思う。

漉いた紙を貼り干しする時に使う刷毛が、本物の松葉を束ねてできた刷毛だったのにはびっくりした。

町には竹紙の工場がまだいくつかあり、竹に麻や楮を混ぜてはいたが、手漉きの技と竹紙の伝統がまだまだ受け継がれている様子が見て取れた。

 

禅寺で竹紙に出会う

杭州では、浄慈寺という禅宗のお寺を訪れた。ここで、竹紙を燃やす光景にはじめて出会った。
以前から、中国の街を歩いていると仏具屋さんのようなところで、黄色い色の紙を束にして売っているのを見る機会があり、竹紙ではないかと思っていた。中国の人に「これ何に使うの?」と聞くと、葬式やお盆や法要の時に、銭紙と呼ばれる竹紙を燃やす風習があると答えられ、実際に使っているところを見たいものだとかねがね思っていた。

浄慈寺では、拝殿に入る前の線香台のようなところで、黄色い竹紙を燃やしていた。ちょうど線香を燃やすのと同じような感覚で、紙垂のような竹紙に火をつけ、それを線香などとともに灰の上に置き、その後、人々は拝殿の方に進んでいく。

ちょっとしたお清めというかお祓いのような感覚なのかなと思った。中国の人に聞くと、法事のときなどにも、日本でいうところのお盆の迎え火や送り火のような感覚で竹紙を燃やすのだそうだ。
この旅で、暮らしに根ざした竹紙の利用風景を見られたことは意義深いことだった。

ちなみにこの浄慈寺というお寺は、水上勉先生の著書『虚竹の笛』の主人公・虚竹禅師ゆかりの寺でもあることを、旅から帰った後に知った。虚竹禅師は竹の楽器・尺八の祖として知られ、水上先生の本の中では、日本人と中国人、また中国と日本の間に生きた数奇な運命の人物として描かれている。そんな人物ゆかりのお寺で、初めて現地での竹紙の使いみちに出会えたことは、たいへん感慨深い思いであった。

竹産業あれこれと日本

宜興では竹のフローリング工場も見た。
工場内では膨大な数の竹が扱われ、細かく割って煮沸や乾燥を繰りかえしながら、床材にされている。

昨今は日本でもときおり竹のフローリング材を見ることがあるが、ここではアメリカやヨーロッパにも輸出されているそうだ。大きな規模の竹産業だ。これから日本でもこうした需要が増えていくのだろうか。

竹工芸品と100円ショップ

安吉では、竹工芸品の工場に行った。
残念ながらすでに作業時間は終わっており、製作風景は見られなかったが、ここで作られた製品の数々をみておもわず「えっ!」と声を上げそうになった。製品のほとんどが日本のホームセンターや100円ショップで売られているおなじみの竹商品だったからだ。竹の割り箸から楊枝、竹べら、竹ざる、竹籠、花入れ、家具など何でもござれ。まるでここは日本の100円ショップのショールームだ! ここから週に1回コンテナが出荷され、大阪や京都の会社や料理店に荷が届けられるという。

こうした竹製品のうち、単純なものは機械化されて工業的に作られているが、竹籠などほとんどの細工物は手で編んで作られるものだ。京料理を演出する竹の籠や小粋な突き出しを入れる竹の容器が、中国の田舎で、中国の職人さんたちの手によって作られていたのかと思うと、すこしショックだった。
日本ではこうした手作り品は手間のかかる貴重なものとして珍重され、価格も高価だ。でも、ここ中国では、同じ手作り品が安い人件費に支えられ、日本向けに次々と作られ送り出されているのだ。使い捨て商品としてその安さを要求しているのも私たちであり、一方で高級な手作り品を求めているのも私たち。その矛盾を考えさせられるひとときでもあった。

竹の海!
今回一番楽しみにしていたもののひとつが「竹海」の見学だった。「樹海」という言葉は知っているが、「竹海」は日本では見たことも聞いたこともない。竹が海のように連なる光景−−一体どんなだろうと胸をふくらませていたが、それがまさしく中国にはあった。

孟宗竹の海が見渡す限り続いている! その向こうの山も一面竹林、そのまた向こうの山も一面竹林。竹の緑は他の樹木のように濃い色ではないので、淡い緑の山々が見渡す限り続いている。黒竹の竹海もある。こうした光景は浙江省、江蘇省周辺にいくつかあり、「竹海公園」として中を散策できるようにしているところもあった。

ここを歩いた時の気持ちよかったこと! 庭園的なチマチマした竹林ではなく、荒れ果てた放置竹林でもない、美しい森に入ったような竹林散策は、まさに竹林浴そのもの。私はマイナスイオンを全身に浴びて、すっかりリフレッシュして元気になった。

言い添えておくが、こうした中国の竹林は、決して自然のままの状態ではない。私は旅に出る前、勝手なイメージとして日本の竹の方がきちんと手入れされており、中国の竹は手入れされていないのではないか、と想像していたのだが、全くちがっていた。竹海公園の竹にしても、1本1本の竹に目印がついていて、それぞれの所有や竹の状態が識別され、管理手入れされていた。

中国は竹の豊富なところだ。広い国土のあちこちに竹の産地がある。そして、竹を利用する割合もまた、日本とは比べ物にならないほど多い。日本では竹から他の素材へと変わっていってしまった物の多くが、中国では今なお竹でつくられ続けている。現代日本の竹がともすればイメージ先行で実際には使い道がないのに比べ、中国の竹はさまざまな形で生活の隅々に入っているのだった。だからこそ、育てられ、管理され、生かされ続けているのだろう。当たり前の事ながらそのことに気づき、衝撃的な驚きをおぼえた。

日本では再び、中国のように竹を使う事があるのだろうか? そのためには何を捨て、何を拾うことになるのだろう。日本の竹に未来はあるのだろうか? よくはわからない。でも、私は私なりのやり方で竹を使い竹と関わっていきたい。日本の竹も中国の竹も、この目で見続けていきたいと思った。

*調査訪問時期は2007年4月です。「竹資源活用フォーラム」の調査行として視察訪問し、この他にも大学の研究所や竹の博物館など多くを訪れました。2020年の現在では当時と様子が変わっているところもあるかもしれませんが、当時の写真と日記の臨場感をそのままに残しておきたいと考えましたので、そのままに記載しておりますことをご了承ください。

世界の竹紙探訪の旅 中国編その2

2. 福建省編 

中国の東南部、福建省の竹紙づくりを見に行った。福建省もまた竹の多いところで、 古い中国の文献にも竹紙の産地として記述がある。中国の古書「蘇易簡紙譜」には、紙を作るのに「蜀人は麻を以てし、門人は嫩竹を以てし、呉人は繭を以てし、北人は柔皮を以てし、端渓は藤を以てし …楚人は楮を以てす」と記されている。この門人というのが南方の福建省周辺の人のことで、水上勉氏や久米康生氏の造紙研究の著書にも、しばしば福建省の名前が挙がっているのを知っていた。

テラでも、山梨県で文具四宝の会社を営み、中国と交易のあるKさんという方から、以前に中国竹紙の話を伺い、福建省の手漉竹紙を取り寄せたことがあった。私たちの手漉き竹紙とはだいぶ感じ の違う半紙のような薄手のなめらかな紙で、これが本当に手漉き竹紙なのかなあと気になっていたのだ。

そこで、今回は、K さんにお願いして、その福建省の竹紙会社に事前に連絡を取ってもらい、あらかじめ先方に伺う約束をしていた。一応約束して会社を訪ねるのだから、あまり失礼があってはいけないと思い、通訳も、娘だけでなく、娘の推薦する中国人の友人・曾莉芬さんにも同行をお願いしてあった。
莉芬さんは、娘と同じ大学の日本語学科を昨夏卒業し、現在中国政府の奨学金で日本の大学院 に留学中(この時は留学前で在中していた)の優秀なお嬢さんだ。過去にも日本に 1 年の留学経験があり、日本語はべらべら(はっきり言ってわが子たちより語彙が豊富)のみならず、娘に言わせると、 物事をはっきり言うのが当然の中国人の中で数少ない、曖昧なニュアンスの日本語を理解する中国人 なのだそうだ。

私たち一行 5 人は、福建省の港町、アモイを起点に、またまた長距離バスに乗り込んだ。めざすは、 内陸部の連城という町だ。K さんからは、アモイから連城へはタクシーで 8~10 時間かかると聞いてい た。しかも、途中の道は、工事や事故や崖崩れなどでしばしば通行止めになることがあるから、必ず水と食料を常備していくようにと忠告を受けていた。しかし、ここでも中国の近代化は猛スピードで進んでおり、できたての高速道路のおかげで、アモイから途中の龍岩という町へは高速バスで3 時間 弱、そこでバスを乗り換え、次のバスは空調はなかったが、また3時間弱で連城に着くことがてできた。 途中はのどかな農村で、道路の両側に広がる竹藪とバナナの畑が同居する光景が、なんだか見慣れな い不思議な印象だった。

竹紙の会社を見学する

連城の町からそう遠くないところに、教えていただいた竹紙の会社があった。訪ねると、場長の江 道水さんをはじめ、副場長や経理主任など、社員の方々がずらりと並んで私たちを出迎えてくれた。 恐縮しつつ自分と家族を紹介する。

日本から竹紙の会社を経営する人が見に来ると聞いて、もしや大取引を期待して胸弾ませておられたのではないだろうか。それが、現れたのはリュックを背負った変な家族連れで、「あれえ、こんなやつらか」と実はがっかりしているのではないか、と不安がよぎる。 でも場長の江さんは、そんな様子はまったく見せずに、私たちを暖かく迎えてくれる。「私たちを紹介 してくれた K さんは、自分の大切な友人だ。その友人が紹介してくれたあなた達もまた、自分にとっ ては大事なお客様だ」と江さんは言ってくれるのだった。

まずお茶をごちそうになったあと、社内にある紙の倉庫や、できあがった紙の検品の様子を見せていただく。倉庫にはさまざまな竹紙が数メートルの高さに積み上げられている。薄くて白っぽい竹紙、 やや黄みがかった竹紙、長さが 2 メートル以上の紙もある。

江さんの説明によれば、「福建省は古くか ら竹紙の産地として知られているが、その 95 パーセントがここ連城で作られている」とのことだ。江 さんの会社では、日本や韓国から紙の注文を受け、近隣のいくつかの工場(作業場)に依頼して紙を製作、できあがった紙をここに集めて注文に応じた形にして輸出しているそうだ。
この会社で作られ る紙の 95 パーセントが日本用の書道半紙、5 パーセントが韓国用の書道紙やふすま紙と聞き、そんな に日本に竹紙が入ってきていることに驚きを覚えた。ただし、ここで作る紙はすべて 100%竹紙という わけではなく、竹紙に麻や楮の紙を混ぜたりして仕上げているものもあるとのことだ。

私が中国での竹紙の生産状況を尋ねると、江さんは「竹紙は、原料の竹は安いが、作るのに手間暇 がかかり、利益効率が悪い。中国政府は現在麻や楮の紙をより奨励しており、竹紙は厳しい状況だ」 と言っておられた。この日は到着がすでに夕方だったので、連城の町に泊まり、翌日ゆっくり竹紙の 製作現場を見せていただくことになった。

ホテルに荷物を入れ一服していると、江さんの会社の経理主任、周さんが晩ご飯をごちそうします と迎えに来てくれた。言われるままに、我々一行5人はぞろぞろついていく。案内された店に着くと、 個室に場長の江さん以下、会社の役員 4~5 人の方々が勢揃いしていた。

連城は田舎の町だし、ごちそうなど期待してはいなかったのだが、次々出てくる料理を見て私たち はびっくり仰天。イノシシの炒め物、ウサギの煮物、鶏 1 羽のゆでたもの(上には顔までついている!) 野鴨が丸ごと入ったスープ(姿作り風に全身入っていて、くちばしが鍋から突き出ている!)、めずらしい湖魚や川魚、そしてさまざまな野菜や山菜、栗やキノコの炒め物や煮物。どれも食べたこともな い珍しいものばかり、盛りつけも美しく、量も半端でない多さだ。

私たちが目を丸くしつつおいしくいただいたのは言うまでもないが、さらに驚いたのは乾杯だ。み なで円形テーブルを囲んで食事をしていたのだが、江さんをはじめ、居合わせた方々が、食事中にひ とりずつおもむろに立ち上がり、「小林さん一家の中国訪問を祝して乾杯させてください」といってお酒を注いで乾杯してくれるのだ。そのたびに私たちは立ち上がり、注がれたグラスを飲み干す。一人 終わると次の人が、また終わると次の人が、と全員が乾杯してくれて、たいへんな乾杯責めにあった。 夫だけはひとり予防線を張り、一番最初に「僕はお酒が全く飲めないので失礼をお許しください」と いって、ウーロン茶で許してもらえたのだが、他の 4 人は乾杯のグラスを次々と干さねばならず、見る見る真っ赤になってしまった。19 歳の娘も、高校 2 年の息子もまた…。でも、中国の客人へのもて なしの古き良き伝統をかいま見たようなひとときだった。

紙漉場を巡る

翌日は朝 8 時に周さんが車で迎えに来てくれた。1 日がかりで点在する紙漉場を見て回る計画なのだが、まずは朝食だ。昨晩から、朝食は豚の内臓料理を食べましょうと誘っていただいていた。朝から内臓料理?と、ちょっと心配だったが、この辺の名物料理なのだそうだ。そして「なんといっても内臓は朝が新鮮でいい」と周さん。周さん、それっていったいどういう意味ですか!?

その日の朝食メニューは、お粥、スープ、餃子、香草入りの蒸しパン、米で作ったどぶろくのよう なお酒がたっぷり入った飲み物、そして山盛りの豚の内臓のボイルしたもの。これは心臓、これはレバー、これは大腸と教えてもらいながら、刻みショウガや薬味の香草をたっぷり乗せて食べるゆでた ての内臓料理は、意外に生臭くなく、想像以上にあっさりおいしいものだった。やっぱり決め手は新鮮さだったのだろうか。

さて、いよいよ紙漉場へ向かう。電車もバスも通っていない地域なので、江さんの手配してくれた ワゴン車で回る。もちろん江さんも一緒だ。道には牛や鶏、犬そして人が自由に行き交い、田んぼでは鴨が家族連れで鳴いている。

紙漉場は工場といっても取り立てて機械があるわけではなく、がらんとしたコンクリートの建物の中には、いくつかのコンクリートの水槽と、材料が回りながらつぶれていく大きなミキサーのような? 簡単な装置がある程度。

それぞれの水槽の前ではおじさんたちが紙を漉いている。

確かにすべて手漉 きだ。
桁のついた漉き枠に竹に漆を塗った簀がはまっていて、それで水槽の中の材料を何度か揺すっ て漉き返し、簀をひっくり返して漉いた紙を重ねていくやり方は、夾江の徐さんがしていたのと同じだ。時々横の小水槽から大きなひしゃくのようなもので水槽に何かを入れてはかき混ぜている。聞いたところ、ネリを使用しているとのことだった。江さんや作業にあたる人からは、このやり方は、基 本的には昔から受け継がれた伝統的な方法だとの説明を受ける。

私は、材料にネリを入れ流し漉きす る紙漉方法は、日本の和紙が独自に発展させた方法だと読んだり聞いたりしたように思っていたが、中国ではどのくらい前からこの方法をおこなってきたのだろう。私自身は水上勉氏に習ったやり方を踏襲し、ネリを入れずに溜め漉きをしているのだが、中国でも、もともとは原始的な溜め漉きだったものが進化して、流し漉きに変わっていったのだろうか? それはいつ頃のことで、日本との違いはどのように生まれていったのだろう? また、現代日本の和紙に反して、水上方式では、なぜ竹紙にネリを入れない形にしていったのだろう。新たな疑問がさまざまわいてくる。

漉き枠はかなり大きなものあり、漉き手の人たちは、2m以上の紙もいともたやすく漉いている。み んな地元の人たちで、昔から紙漉をしている熟練の職人さんだそうだ。ここの人たちは 1 日にひとり 約 1000 枚の紙を漉くとのこと。大いに尊敬する。場長の江さん自身、16 歳から紙漉に携わり、もう 40 年も紙漉に携わっているとのお話だった。

私はぜひ竹を漬け込んでいる場所を見たかったのだが、場長の江さんに聞いたところ、「竹を漬け込んでいるのはかなり山奥の溜め池で、行くのも大変な場所だし、匂いも臭いから無理だ」とのこと。 今回は残念ながら見ることはできなかったのが少し心残りだった。

福建省の紙漉場で意外だったのは、竹紙作りの工程の中で、竹を煮る作業がなかったことだ。四川省の夾江では、写真でも展示物でも大釜で竹を煮ていたことがわかるし、「天工開物」にも材料を煮る 絵があったから、当然煮る工程は基本としてあるはずと思っていたのだが、通訳の莉芬さんに何度確 認してもらっても、ここでは竹は煮ないという。孟宗竹の若竹を切り、山奥の小さな湖に浸けて軟化させてから取り出し、その後はいきなり苛性ソーダを入れてミキサーにかけてパルプ状にしてしまうというのだ。これは大きな違いだ。

私たちが竹紙を作っている際にも、4、5 年漬け込んだ竹ですら、3 日ほど煮なければ、とてもバルブのようには柔らかくならない。薬品をかなり入れて作業しているの だろうか? でも、そうだとしたら、昔は苛性ソーダなど使ってはいなかっただろうし、どうしてい たのだろう。近代化の過程で方法が変わったのかもしれないと思い、そのへんのことも聞いてみたが、 やはり「昔からこうやっている」との返事だった。竹紙に限らず、中国の少数民族の紙作りなどでも煮ないで紙を作るところがあると久米氏の文献で読んだことがあるが、この地域のやり方なのだろうか? 結局、なぜここでは竹を煮ないのか、詳しい理由はわからなかった。今後ぜひ機会を得て、さらに調べてみたいものだと思う。

作業工程の中で、よい方法だと思ったのは、漉いた紙を乾かす際に、鉄板に張って干しているのだが、鉄板を直に熱を加えるのではなく、お湯を循環して暖め、その熱で紙を乾かしていたことだ。作業の人たちは重ねて水切りした紙を一枚ずつ巧みに剥いで、刷毛を使って鉄板に張っていくのだが、 作業をする人にとっても熱でけがをすることがなく安全でよい、と江さんも言っていた(ちなみに、私たちはといえば、溜め漉きして木枠のまま天日干しする形を原則的にしているので、こうした方法はとってはいない)。

竹紙の今後とこれからの課題

私たちは江さんと 4 つの工場を見て回ったが、伝統的な手法にちょっと変化があったのは、第 2 工 場だ。ここは江さんの息子さんが 27 才の若さで工場長を務めている。第 2 工場だけは、紙を漉く作業 に少し自動化が取り入れられており、材料の入った水が、漉き枠の上に自動的に流れてきて、人が手 を動かさずに木枠に手を添え受けるだけで紙漉ができるシステムになっていた。近年の台湾のやり方 を導入したものだそうだ。

均一に材料水が流れてくるを待つだけの機械的な紙漉は、わたしにはちょ っと寂しい気もしたが、手を返さずにすむので腰や腕に負担が少なく、何より熟練した技が必要ない ので、若い人でも作業が可能なのだそうだ。仕上がりにも多少の差はあるが大きな変化はないという。 確かに、他の工場がかなり年輩のご老人ともいえる職人さんだったのに比べ、第 2 工場だけは、年齢 層が若いのが特徴的だった。紙を乾かす作業にも、他では見かけなかった女性の作業員が採用されている。ここでは、若い息子さんの考え方が経営に反映されていることがわかった。

きっと中国では、これからさまざまな場所や場面で、日本がたどってきたような激しい近代化の波が訪れるのだろう。そうした流れの中で、得られる便利さと失われる古きよき伝統、二律背反どうしても避けられない問題も出てくるのだろうと思う。他の工場にいた職人さんの未来はどうなるのだろう。夾江の徐さんの手作りの紙に対する喜びや誇りは、若者にも受け継がれていくのだろうか? でも、高齢になる職人さんを継ぐ人がいなければ、紙の未来もないわけで、若い人のやり方もまた否定することはできない。これから、中国の竹紙はどのような道をたどっていくのか。そして私たちもまた何をめざしてどこへ向かうのか? そんなことを思いつつ、二代目工場長の若々しい横顔を眺めた。

今回の中国竹紙の旅では、実際に現地へ行き多くのことがわかった一方で、さらに疑問に思ったり 調べたいこともまた多く生まれてきた。その一つに、一般庶民が竹紙をどのような用途で日常的に使 っているのかということがある。今回は 2 カ所の竹紙の郷を訪ねることができたが、1 カ所は博物館、 1 カ所は輸出を多く行う紙の会社ということもあり、庶民の利用状況には今一歩踏み込むことができなかった。しかし、町中で竹紙を見かけなかったかいえば、実は見かけた。どこで? それは「仏具屋 さん」である。仏壇の飾り物などを売っているようなところには、夾江の博物館や連城の竹紙会社で見たのより、ずっと粗くて安い、黄色い竹紙とおぼしき紙の束がよく売られていた。連城の江さんや 通訳の莉芬に聞いたところでは、中国のお盆の時期には、日本の送り火や迎え火のような感覚で、竹 紙を燃やす風習があるという。仏具屋さんに売っていた竹紙は、たぶんそうした目的のためのものだったのではないかと思う。以前、台湾でもお葬式のときに竹紙を使うと聞いたことがあるし、東南ア ジアのミャンマーでも、寺院などで宗教的な用途に竹紙を使うと聞いたことがある。そんな竹紙はだれがどこで作り、実際どのように使われているのだろう。見たい思いが募る。

中国竹紙のバリュエーションについても、まだまだ知りたい思いが残った。私がこれまでに見た中 国竹紙のほとんどは、薄くてなめらかな書道半紙のような紙だった。それらの主な用途は書や墨彩画であろう。けれども、日本でかつて生活のさまざまなシーンに紙が使われていたように、竹紙にもさまざまな形態があり、生活のそこここで使われた、というようなことはないのだろうか? もしそう した歴史があったなら、それらを知ることが、これからの私たちの竹紙の未来を考えることにもつながっていくこともあるのではないか? そんな思いも抱いた。

中国は広い。東西南北さまざまな地域にさまざまな人々が暮らしている。少数民族も独自の文化を持っている。そして中国の多くの場所に竹は生育している。中国だけではない。アジアを中心とした多くの地域に竹は生えているのだ。そこには私が知らない、竹から作られた竹紙がまだまだあるのではないだろうか?

今後時間はかかるだろうが、世界の竹紙を作っている人と使っている人の暮らしを、少しずつでも 見ていきたいものだと思っている。そしていつか、世界の竹紙展の開催を実現させたいと願っている。

*調査訪問時期は2005年8月です。2020年の現在では様子が変わっている可能性もありますが、当時の写真と日記の臨場感をそのままに残しておきたいと考えましたので、当時のままに記載しておりますことをご了承ください。

世界の竹紙探訪の旅 中国編

(展覧会としてご覧いただくつもりでおりました「世界の竹紙展」ですが、新型コロナウイルスのために、会場にて開催することが叶いません。そこで、ネット上でみなさまに展示をご覧頂く形で公開したいと存じます。本日より連休明けまでの間、中国のいくつかの場所、ラオス、ミャンマーなど、これまでに訪れた竹紙探訪の旅の記録を公開していきますので、どうぞごゆっくりご覧ください)

 

1. 四川省編

 竹紙の店を始めたときからいつかは実現したい一つの目標があった。
「竹紙の専門店」と名乗った以上、国内外を問わず、世界中の竹紙を作る場所で、竹紙を作る人やそのようすを見てみたいと思っ ていたのだ。
 そんな私に格好のチャンスが訪れた。娘が中国の大学に 1 年間留学することになり、一度は様子を見に行こうと中国行きの名目がたった。ならばついでに日本竹紙の源流である中国竹紙の郷を訪ねてみてはどうか、と家族をさりげなくそそのかし、じつは娘を通訳に、夫をカメラマンに、 息子を荷物持ちに仕立てるべくもくろんで、2005 年 8 月、往復飛行機だけを取り日本を出発したのだった。

竹紙のふるさとはどこ?  

  8 月 15 日、娘が暮らす中国湖南省の長沙から成都行きの飛行機に乗った。
 その年は春から中国国内で反日感情が高まり、デモやトラブルも報道されていた。おりしも移動日は終戦記念日当日。機内で新聞を開くと、「祝・抗日勝利 60 周年記念!」の見出しが踊り、東条英機以下数十名の戦犯日本人の写真が紙面を飾っていた。日本では戦争は遠い過去のことのように思う世代でもあり、 戦争には反対こそすれ、自分が戦争責任の側にいるという認識はほとんど抱いたことがなかったが、 中国ではなんだかほのかな罪悪感すら感じてしまい、日本人だとわかったら何か言われるかも? とちょっとドキドキしてしまった。でも、個人で旅をする私たちに悪口を言う人はだれもおらず、旅の間中、日本人だということでいやな思いをすることは一度もなかったということを、両国の友好のために一言言っておきたいと思う。  

 さて、成都に行ったのは、四川省の夾江というところに竹紙の産地があると古い中国の文献に書いてあったからだ。四川省はパンダのふるさとでも知られるとおり竹の豊富なところである。町の中にもさまざまな種類の竹が見られる。日本のように太い孟宗竹は少なく、細い株立ちの竹が街路樹のように植えられている。  

 

 夾江は地図で調べると成都の南側にあり、崖に彫られた磨崖仏で有名な楽山という世界遺産のやや近くにある。世界遺産になっているくらいの場所なら、行く方法はいろいろあるだろうと成都で調べてみると、いくつか長距離バスが出ていることが判明。夾江行きの長距離バスもあるとわかり、翌日出発と相成った。
 中国は近年高速道路建設ラッシュで、数年前までは夾江や楽山への道もずいぶん時間がかかったそうだが、今では高速バスで成都から2時間あまりの距離だ。  

 夾江へはすいすいと着いたものの、実は、 そこから先の情報は日本では何も得られていなかった。夾江は観光ガイドなどには全く出てくることもない、なんの変哲もない地方の町で、ましてや竹紙の産地などという情報が出ている本は、一冊たりとも見つからなかった。
そこで、夾江のバスターミナルにたむろする運転手さんや車掌のおばちゃんを捕まえては、娘の通訳で竹の紙を作っているところを知らないかと片っ端から聞いて回った。
すると、「それなら○○村で作っている」といい出す人が現れ、向こうのバスが行くという。バスの所 に行くと、車掌のおばちゃんが、「バスはもう出るわよ。どうするの、あんたたち。乗るの?乗らないの?」と急かすので、「ようわからんけど乗っちゃえ!」と、言われるままに小さなおんぼろバスに乗り込んだ。  

 バスは 15 人乗りくらいの田舎のガタゴトバスで、全員地元とおぼしき乗客たちは、見慣れぬ私たちに興味津々の様子。「どこから来たの?」「どこへ何しに行くんだ?」と目を丸くして聞いてくる。
道は高速道路から一転して舗装でなくなり、バスももちろん空調はなし。開け放った窓からは、赤土の 土埃を巻き上げた真夏の風が大胆に入ってくる。
農家の点在する細い山道を数十分走り、これまで見たこともないほど辺鄙な田舎まで来たころ、車掌さんが「ここに竹紙の会社がある」と教えてくれた。あわててバスを降りる。

 そこは村の小さなメインストリートといった感じで、水たまりのある未舗装の道の両側には、野菜や乾物、雑貨を並べた 露天の店が並んでいる。歩く村人や自転車に混じって、犬や鶏も残飯をあさってうろついている。

 

 少し歩くと、確かに紙の会社があった。書道半紙のような全紙サイズのキナリ色の紙が積まれ、この田舎には不似合いともいえるそこそこの規模の会社である。
早速入り口付近にいる作業員風の男性 2 人に「これは竹の紙ですか?」と尋ねると、そうだとの返事。やったぁと小躍りして、竹の紙を作っ ているところを見せてほしいと頼むと、あっさり断られてしまった。「許可がないとだめだ」というのだ。
「許可ってどこで何を?」と聞くと「成都の公安へ行って許可をもらってこい」との返事。成都ま では数時間の道。ようやくここまでたどり着いたのにそんな・・・と食い下がって頼んだが、先方はとりつくしまもない。さすが社会主義の国。個人の規模でやっているところではなさそうで、この男性たちに頼んでも答えは出そうにない。  

 短い村のメインストリートを端まで歩いてみたが、生活の店があるだけで、ほかに紙屋さんはない。仕方なしに屋台の饅頭屋で肉まんを買って食べて露天の店 をのぞいていると、店の人や通行人と話が広がった。

「こんな所に何しに来たの?」「日本から」「なに、竹の紙を探している?」「作っているところをみた いんだって」「あそこに紙の会社があるだろう」「見せてもらえなかったんだってさ」。
観光客、まして や外人など来ることもないような村だから、村人たちは、何事かとのぞき込み話に加わる。
 と、一人 の通行人が「夾江には竹の紙の博物館があるよ」といいだしたのだ。 「ええっ!どこですか?」思いがけない情報に驚き、博物館の地名と名前を書いてもらった。今はそ れしか情報はないのだから、とにかくそこをめざしてみようと決め、再びガタゴトバスにゆられて、 夾江の町へと戻った。  

竹紙の博物館へ

夾江から博物館への行き方はさっぱりわからなかったので、奮発してタクシーに乗り込んだ。博物館がそう離れた田舎にあるとは思えなかったので、町のどこかにあるのだろうとあたりをつけていたのだ。ところが、タクシーはどんどん郊外へと走っていく。道の真ん中でトウモロコシを干したりしている農家をいくつも過ぎ、かなりの距離を走ったころ、到着を告げられた。
 これまた何もない山と川のほとりだ。ここはいったいどこ?と辺りを見回すと、地図があり、地図上の奥の方に確かに造紙博物館の文字が見える。

 この一帯はちょっとした史跡になっているらしく、博物館への道は、タイムスリップしたような古 い集落だ。他の町ではもう見かけることのない青い国民服のおじいさんや、纏足かと思う小さな靴を 履いたおばあさん、毛沢東の肖像もある。

 次第に道はうっそうとした山道になり、周りの崖には細かなたくさんの彫り物が出現する。赤い土肌一面に磨崖仏が彫られているのだ。

 その後世界遺産の楽山にも行ったが、ここの磨崖仏は、大きさこそ小粒だがひけをとらないすばらしい彫り物で、観光客の多い楽山に比べ、誰一人いない自然の山中で歴史と文化を感じられる希有な場所だった。

 汗をかきかき山道を進むと、奥手の山の上にまるで竜宮城のように忽然と赤い建物が見えてきた。

 それが私たちのめざす四川省夾江造紙博物館だった。

 山門のような入り口をくぐると、そこには中国 の竹紙の歴史がたっぷりと詰め込まれていた。

 竹柵にはじまり、元の時代の竹紙、明の時代の竹紙と、竹紙が時代順に陳列ケースに並んで保存されている。1000 年前の竹紙が今なお確かに残っていることに驚きを覚える。

 我等が竹紙づくりのバイブル「天工開物」や殺青の絵も展示されている。
「天工開物」は宋の時代に書かれた 中国の技術書ともいうべき古書で、竹紙の作り方が絵とともに図解されている。私たちは(というよ り水上勉氏は)、その本の記述に基づいて竹紙作りを日本で復元製作してきたので、ああ、中国でもやはりこれが基本なのか、と改めて感慨が沸いてくる。

 展示写真も、竹を切る様子から煮熟、漬け込み、 叩解、紙漉と、村人たちが総出で協力しあってやっているような様子が写されパネルになっている。 「天工開物」の絵の通りの風景だ。この一帯は昔から造紙の郷として知られるところだったらしい。

 竹を煮たり搗いたりする古い道具も展示されている。

 紙漉の簀は、竹で極細・繊細に作られ、きれ いに漆を塗られており、見事な作りだ。2 メートル以上の漉き枠もある。

 また高さ 3 メートル以上の竹を煮るための大きな木製の釜が実際に展示されているのを発見したときは、思わず「これだ~!!」と 叫んでしまった。この大釜は、「天工開物」の絵ではおなじみだったものの、日本では使われていない ので、中国の歴史上にタイムスリップでもしなければ、お目にかかることはないのかなと思っていた のだ。それを目の当たりに見ることができるなんて、それだけで来た甲斐があったというものだ。

 展示に見とれていると、先に行った息子に別室から手招きされた。何かと思ってそちらの部屋へ行くと、なんとそこでは、紙漉の実演がおこなわれていたのだった。

徐さんとの出会い

紙を漉いていたのは、徐良云さんというおじいさん。聞けば16 歳のときから 70 歳過ぎの現在まで 夾江の村で竹紙を作り続けているとのことだ。

 徐さんは極細の竹籤に漆を塗った簀を使い、いとも簡 単に水槽からすいすいと紙を漉いていく。方法としては、私たちのような木枠ごと漉いてそのまま干 す溜め漉きではなく、日本の伝統和紙に近い流し漉きのようで、漉いては紙を重ね、水を絞って干すというやり方だ。

 思いがけない出会いに感動し、竹紙の産地と作り方を見たくて日本から来たこと、日本で竹紙の専門 店を営んでいることなどを興奮して話すと、徐さんはとても喜んでくれた。そして、私が日本から持 参した自作の竹紙を見せると、今度は徐さんが興奮する番だった。

 館内で施設管理する人とともに、 紙を見ながらああだこうだと熱く話している。互いに聞いたり話したいことがいっぱい沸いてきて、 専門的なことも含め、矢継ぎ早にあれもこれもと質問を飛び交わせていると、娘が音を上げた。「ごめ ん、さっぱりわからない!」
娘はまだ中国に行って半年で、語彙も十分ではないこともあるのだが、 どうやら徐さんたちも興奮して地元の言葉でまくし立てていたようだ。中国では標準語とされる北京語以外に、隣村でも言葉が通じないときがあるというほど、さまざまな方言があるらしい。
まあいいのだ。今回の大きな目的は、中国の竹紙づくりの細かなノウハウを知りたかったわけではなく、世界のどこで、誰が、どうやって竹紙を作っているのか、この目で見てみたかったということなのだから。それがかなっただけで十分だ。

 徐さんは博物館をずっと案内してくれ、一角にある紙の始祖、蔡倫をまつった祭壇にも連れて行ってくれた。私たちは今日の自分たちがあることを蔡倫の石像に感謝して手を合わせた。

最後に私と徐さんは互いの作った竹紙を交換しあって別れた。徐さんは博物館の奥にある自分の寝 室(昔の中国映画に出てくるようなかわいい蚊帳つきのべッドのある小部屋だった)から自作の紙を 出してきて「それ、売るのか?」と聞く管理人に、「いいやあげるんだ」と誇らしげにいって、私に持たせてくれたのだった。国や言葉を飛び越えて、ものを作る者同士が分かり合える、嬉しい出会いだった。

*調査訪問時期は2005年8月です。現在ではまた様子が変わっている可能性もありますが、当時の写真と日記の臨場感をそのままに残しておきたいと考えましたので、当時のままに記載しておりますことをご了承ください。

ミャンマー竹紙探訪の旅 その7

2月12日 帰路へ

朝4時半にホテルを出て真っ暗な夜道を車で南に走る。
ドライバーさんはとても運転が上手で信頼できたが、すごい標高差の山道を駆け抜け、曲がりくねったカーブをいくつも越えて、崖っぷちをトラックと行き交い、too dangerous な道のり。
それでも朝8時頃には山を下ってタージーという街までたどり着き、そこで朝食。

かまどで小麦粉を棒状に練って揚げていて、これは私たちの大好物でもあるので、甘いミルクティにつけて食べる。サモサも揚げたて、どちらもとても美味しい。ウーさんが朝は麺だと言うので、それも食べる。これも good。この街に住んでいるというウーさんのいとこ夫婦もやってきて、みんなでお茶も飲む。全員の朝食とお茶で合わせて3600K(360円)って安すぎでしょう。
かまどではナンも焼いていて、作り方を見せてもらう。テラのかまどでも同じようにできないかなあと、やる気膨らむ。

 

その後は、ヤンゴンーマンダレーを結んで新しくできたハイウエイロードを走る。
平原を真っ直ぐに突っ切って進む高速道路は、それまで走っていた道とあまりにも違うので、ミャンマーにもこんな道があるのか?!とびっくり。
でも、ハイウエイの中央分離帯に牛がいたり、農家の人が牛車で高速を渡ろうとしていたり、ありえへん光景もいろいろ。日々使っていた生活の道が高速道路で分断されて、人も生き物もとまどっているのだろう。

11時過ぎには空港につくことができ、午後のバンコク行きの飛行機に十分間に合うことができた。
ウーさんと最後のお茶。
同行中、ウーさんには通訳の他にも、ミャンマーの仏教についてや学校教育についてもいろいろ教えてもらうところがあった。

ミャンマーの人々に深く根付く仏教(上座部仏教)は、今回の旅で大きく心に残った。富める人にとっても貧しき人にとっても、心の安寧は誰もが願うところだ。そして祖先を思い子を思う気持ちは昔も今も変わらない。ミャンマーの人々にとって、仏教の教えが根底で心の支えとなっているのだと、そこここでうかがい知ることができた。それがミャンマーの人々の穏やかさの後ろにあるのだなあ感じられた。

教育についても、短い旅の中ではあるが、出会った人からミャンマーの教育は人を育てているのかなと感じるシーンがいくつかあった。
ウーさんも豊かな家の出ではなかったそうだが、学校はちゃんと行かせてもらい、そこで教育を受けることができ、それが今の自分につながっていると話していた。NORIKI日本語学校でお世話になったチョーさんやモーさん、そして日本語学校の生徒たちからも、教育に希望と未来を感じた。
ただ、竹紙を木の棒で叩いていた少女たちや漆塗りの村の少女たちは、労働力として期待され、長時間仕事をしているように思えた。男子はみな一度はお坊さんになり、お寺で過ごす時間を持つと聞いたが、女子にはない風習だし、やはり、農村部の女の子は、どうしても手近な労働力とされやすいのかもしれない。
それでもボーウィン山のカイマのように、公教育で得られた知識を糧に、自分の生活を切り開いていく女性もいる。
やはり教育の力は大きく、未来につながるのだろうと改めて思ったし、これまでに訪れたアジアの国々の中では、ミャンマーは教育に力を入れているのではないか、と感じた。

 

ミャンマー点描

ミャンマー旅で出会い、これまでの話の流れでは紹介できなかったいくつかのシーンを写真中心に。

この男の子が顔に白く塗っているのは「タナカ」というおしろい状のもの。女性や子どもなどよく顔に塗っている。日焼け止め、とも聞くが、ほっぺただけにくるくる塗っている人も多いから、効果の程はどうなんだろう?

キャンマーの牛、白い牛が多い。牛車も活躍している。

農村の家に飾られていた写真。子どもたちの卒業写真。学校教育に力を入れているのだなあと思った理由の一つ。アウンサンスーチーさんの写真も飾られている。スーチーさんの写真は、他でもしばしば飾られているのを見かけた。

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インレー湖の市場。魚も野菜も豊富だ。

町の食堂にて。こんなにたくさん頼んだわけではなく、たいがいカレーなどメインを頼むと、もれなく副菜の小皿料理が何種類もついてくることが多かった。野菜も豊富。

ローカルバスに描かれた日本語。最初は日本から運ばれた車かな?と思ったが、現代日本で右から左へ描かれた文字はちょっとないだろうし、ミャンマー国内でデザイン的に描かれたのかな?ちょっと不思議。

マンダレーなど都市部は車やバイクで渋滞していたが、農村部でままだまだこんな光景も。

 

後日談になるが、NORIKI日本語学校でお世話になったモー先生(写真右)は2016年夏に日本に短期留学されて、京都で再開を果たした。チョー校長先生の妹さんのチューチューさん(写真左)も一緒だった。清滝にもご案内して、清滝川で川遊びもして、楽しいひと時を過ごした。

旅は終わったけれど、人とのつながりは続いていくし、私の竹紙の探求はまだまだこれからだと思っている。4年ぶりに「ミャンマー竹紙探訪の旅」の報告をすることができて、今は、ずっとやり残していた宿題を仕上げた気分。
今年(2020年)4〜5月には、写真やプロジェクターなども使いながら、竹紙の旅のご報告をしたいものだと考えている。より詳細や実物の紙をご覧になりたい方はこちらへどうぞ。

ひとまずこれにて報告は終了。振り出しに戻って、スタートからまた進まねばね。

ミャンマー竹紙探訪の旅 その6

2月10日 インレー湖をめざす

ローカル長距離バスでいったんマンダレーに戻り、インレー湖を目指す。
なぜインレー湖行きが決まったかといえば、NORIKI日本語学校より「インレー湖近くで紙を漉いているところがある、竹紙ではないか?」と言う情報が入ったからだ。それに「ミャンマーに来たら、やっぱりインレー湖は見たほうがいいよ」とチョーさんも言うので、またまた手配をお願いして、マンダレーから車でインレー湖を目指すことになった。

車とドライバーさんの他、ウーさんという通訳ガイドさんにも同行していただく。
基本的に私たちの旅は、いつも個人旅行のバックパッカーで、なるべくローカルな乗り物を使用、泊まり先も予め決めずに現地調達、自由に行動する貧乏旅行を旨としているが、紙漉きの調査では、現地の言葉が自由に喋れる人が必須になることが多い。だいたい紙漉き場はどこも田舎で英語なんか通じないことが多いし、詳しい内容や専門的なことを突っ込んで聞こうと思うとき、身振り手振りや互いのつたない英語力では、思うところが聞ききれず伝えきれず悔しい思いをすることもある。だから、これだけは必要な贅沢と思いお願いしている。

通訳ガイドのウーさんは、英語日本語の通訳やガイドの仕事をしている人だが、なんと人形遣いなのだそうだ。ミャンマーの伝統的な人形を操るそうで、日本にも人形公演に来たことがあるという。
それを聞き、是非にとお願いして、ウーさんの操り人形を一体、車に同行してもらうことにした。
ドライバーさんは、先日紙漉き場に行ったときと同じ人だ。ずっと後日にわかったことだが、彼はNORIKI日本語学校の日本語教師のモーさんのお兄さんだった。車もお兄さんの車だったようだ。すごく車の運転がうまく、車もきれいで、頼りがいがある感じの良い好青年だとは思っていたのだが、そんなことはつゆ知らず、、。
ああ、ほんとにNORIKI日本語学校の皆さんにはお世話になりました!感謝の気持ちでいっぱいです。

ピンダヤの紙漉き場

途中、すごい山道のヘヤピンカーブをつぎつぎ曲がり、高い峠を超えながら、いくつもの街を通り過ぎて、午後3時過ぎにピンダヤの紙漉き場に到着する。
が、残念なことに、ここで作られていたのはコウゾの紙で、竹紙ではなかった。
もう一軒ヘーホーの空港近くにも紙漉き場があるというので立ち寄ってみるが、どちらも同様なコウゾの紙のみ。竹紙はまったく作られていなかった。

ああ、時間をかけてやってきたのに残念、、、という思いはあったが、せっかくの出会いなので、紙づくりの様子を見せてもらう。

日本の楮の繊維とよく似たような樹木繊維の乾燥したものを煮て潰している。
「これはどんな植物の繊維ですか?」と聞くと、紙を漉いている女性が「この木の皮よ」とすぐ後にある大きな木を指差す。「何の木?」と聞くと、ウーさんは「桑の木」だという。確かにコウゾはクワ科の木であるのだが、私が知るコウゾはこんな大きな木ではないので、ちょっと幹や葉の様子も違うような気がする。


別の欧米人グループが見学に来て、ガイドをしている白人女性は英語で「リンデンバウム」と説明している。ということは、これは菩提樹なのか?でも菩提樹にはクワ科のインドボダイジュとシナノキ科のボダイジュがあるとも聞く。ウーさんはあくまでこれは「リンデンバウム」ではなく「桑だ」というのだが、、、ちょっと正解はよくわからない。
このへんのところは、現地の説明だけではしっくり来る答えが得られなかったので、コウゾや桑に詳しい方にまたご意見を聞きたいと考えている。

 

紙の漉き方自体は、竹の紙やわらの紙と同じように、布を貼った漉き枠を水に浸けて、そこに紙料を溶かし広げていく溜め漉きだ。その中に赤い花びらを入れたりしながら、紙を漉きあげていく。
漉いた紙は、ノート風の冊子にしたり、竹の骨の傘に貼ったり、ときおり訪れる欧米人観光客用のお土産などに作られているようだった。

 

その後、時間は押していたが、ピンダヤの洞窟寺院というところに立ち寄り、夜8時頃にインレー湖に到着した。

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ピンダヤは、自然の鍾乳洞の中に数千体の仏像が安置されている洞窟寺院で、私たちは予備知識もなく大して期待していなかったのだが、迷路のような洞窟をどんどん進んでいくにつれ、そのすごい規模に圧倒された。
先日のボーウィン山といい、このピンダヤの洞窟寺院といい、ミャンマーにはまだまだ知られていないすごい名所がたくさんある。びっくり仰天だ。

2月11日 インレー湖の水上生活

インレー湖はミャンマー北部にある湖で、その地域の人々は、湖の中の浮草の上に家を建て水上生活をしている。浮草の上といっても、地面は結構しっかりしていて、家も建ててあるし、木も生えていて、畑も耕作されている。

 

ボートに乗って、インレー湖の暮らしを見て回る。湖上は風が吹き渡って涼しい。小舟が行き交い、漁や投網をする人々も見られる。あたりまえのように小さな子供だけで小舟を漕ぐ姿も見られる。畑にはトマトがたくさん実っている。天然の水耕栽培?で水やりの必要もないのかな。

家やホテルも建てられていて、すべての暮らしが湖上で成り立っている。ただ、上水も下水もそのまま湖上へ流れているので、人や観光客が増えるにつれ問題になっていくだろうが、、。

いくつかの浮島に上がらせてもらう。

蓮の繊維で手織りをしているところもあった。蓮の茎からフキの筋を取るように細い繊維を取り出し、つなぎながら糸にして、手織りをしていた。気の遠くなるような作業だが、日本の苧麻や芭蕉布なども同様な作業だから、昔はどこでも皆が身近にある素材を活かしつつ、そうした作業をして布を織ってきたのだと思う。

鍛冶屋、木工、漆、葉巻、銀細工など、どこも暮らしに必要なものを一から十まで手作りしている様子が見られる。もちろん元は生活必需品であるが、今はそれぞれ観光客相手にお土産を売っていて、ボートの漕手は観光客をそうしたスポットにつぎつぎ連れて行く仕組みになっているようだ。

湖上にはりっぱな寺院もある。訪れた寺院のご本尊は、みなの厚い信仰のおかげで、金箔をつぎつぎ貼り重ねられて原形を失い、まるで金の団子そっくりの姿になっていた(手塚治虫の漫画に出てくる団子マークそっくりだと思う)。1900年代の古い仏像の写真が飾られていたが、まったく面影がなかったので、ちょっと笑ってしまった。

こうした金箔をつくるために、すべて竹紙が必要とされているわけだから、竹紙の需要は当面十分にあるということなのだろう。

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ここは本尊の周りは女人禁制で、御本尊には女性が手を触れてはいけないそうで、T氏に代わりに金箔を貼ってもらった。

寺院の境内で一休みしたときに、ウーさんに人形を操るところを少しだけ見せてもらった。
ミャンマーでは、お寺での法要行事のときに一晩中伝統的な操り人形を演じる習慣があるのだそうだ。内容はお釈迦様の物語とかラーマーヤナとか、宗教的な物語が多いとのこと。
持ってきてくれたのはミャンマーのプリンスの人形で、手足、頭を10本あまりの糸で操る。日本の竹人形を見てもいつも思うことだが、人形遣いの手で人形が動き出した途端に、命が吹き込まれたように生き生きと動き出すのがすばらしい。

周りにいた外国人たちも、思わず近寄ってきて、ちょっとしたパフォーマンスの披露にもなった。
いつか一晩中人形が操られるという法要を見てみたいものだと思う。

午後にはウーさんおすすめの古いパゴダにも連れて行ってもらう。
バガンをつくった王様が同じ時代に建てた仏塔だそうで、すでに朽ちかけているものも多い。塔の中から木が生え、レンガは土と化し、人の作ったものが自然に還っていく様をみるようで、崇高さも感じる。

この日はボートから沈む夕日を眺め、1日インレー湖で過ごした。

→その7へ続く

ミャンマー竹紙探訪の旅 その5

2月8日 ローカルバスでモンユワへ

朝7時、ホテルを出てバスターミナルへ。8時のバスでモンユワへ向かう。
完全なローカルバスで、車内は補助席まですべて満席。シートも狭く、T氏と二人がけでもお尻がきついところへ、隣の補助席には体重100kgはあると思われるおじさんが座り、互いに肩をすぼめてちょっと斜めに座りながらの4時間の道のり。

すごい農村地帯を延々走ってモンユワへ。街はいわゆる地方都市という感じで観光的な雰囲気はなし。マンダレー同様バイクと車でごった返している。

ここに来た目的は、ここから少し郊外に行ったところに、実用的な漆工芸の村があると聞いていたから。タクシーを頼みチャウッカに向かう。
ここは木材産業も盛んなところで、道端には大木の街路樹が並んでいる。街路樹の木陰には、誰でもが水を飲めるように、水の壷とコップが置かれているのも見かける。木材の集積所も所々にある。

途中、地元の寺院に立ち寄る。
外国人など訪れることもなさそうな地元の寺院だが、ミャンマー人の参拝客はいっぱいだ。

その信仰心の厚さには驚かされる。寺院の入口で靴と靴下を脱ぎ、裸足で寺院に入る。老若男女誰もが床に座り、祈りを捧げる人であふれている。仏像に金箔を貼っている人も大勢いる。仏様は金箔をつぎつぎ貼られて金ピカでコテコテになっていて、ちょっと笑えるが、それでもその祈りの心には打たれるものがある。

バガンの街は、昔の人々が建てて今に残る遺跡で、それはそれで素晴らしかったが、ここはまた異なり、現代に息づく人々の祈りの心と生きる熱気にあふれている。

寺院の門前は、まるで浅草の門前市のようで、野菜や果物、お菓子、雑貨など所狭しと売られていて、お参りに来ることが楽しい旅でもあった昔の日本の姿とも重なるようだった。ここに立ち寄ってよかったなと思った。

 

漆工房にて
チャウッカの村にある漆工房を訪ねる。
働いているおじさんが丁寧に作り方を説明してくれる。と言ってもほとんどミャンマー語のみなので、詳しいことはわからないが、作る工程を見ながらなので、大体はわかり合える。

面白いのは、木地の作り方。
日本では木を削りながらベースの木地を作ってそれに漆を塗っていくが、こちらではほぼすべて竹でひごを作り、ベース(竹地?)をつくっていくのだ。


細く割いた竹ひごをぐるぐる巻き込む形で、茶碗も皿もベースが出来る。それに漆を塗っていく。
バガンのものはデザイン的にもちょっとおしゃれで装飾的なものが多かったが、こちらは籠や茶碗や頭にかぶる傘など、おおむね実用本位なものが多い。

驚いたのは、漆を塗っている様子を見せてもらった時、おばちゃんが手をベタベタにしながら、素手で漆を塗っていたこと。私など手のどこかにちょっとうっかり漆が触れただけでもかぶれることが多いので、その光景にのけぞりそうになる。
「そ、そんなに手で触って、だ、大丈夫なの?!」と思わず日本語で声をかける。
おばちゃん、ニッと笑って「な~に、こんなの洗えば大丈夫よ」とミャンマー語で返してくれた。

工房のおじさんが「そうそう、前に日本人が来たことがあるよ」みたいなことを言って、奥の部屋から何かを持ってきた。覗き込むと、それは名刺で、なんとそれはテラで毎年木工の作品展を開いておられるかつみゆきおさんの名刺だった。ご丁寧に名刺には写真も印刷されていて、にっこり満面の笑みを浮かべたかつみさんの顔写真と思いがけず対面した。
まあ、かつみさんからは、2年ほど前にこの地域でミャンマーの漆を買ってきたという話は聞いていて、だから私もその地域を訪ねてみようと思ったのだが、まさか、行き当たりばったり訪れた村の小さな工房で、かつみさんの名刺を見せられるとは、世界は案外狭いのか?

 

2月9日 ボーウィン山の磨崖仏

モンユワからチンドウィン川を下り、車で1時間ぐらい走った山の中に、ボーウィン山という磨崖仏の寺院があると聞き、そこへ向かう。
山全体が神格化されていて、その中にいくつもの洞窟寺院や磨崖仏が点在している。一体誰がどうやってこんな山の中に寺院をつくったのだ?!世界遺産になってもおかしくないようなこんなすごいところが、山奥にひっそりあるなんて!!と驚愕する場所だ。

勝手に見て回ろうかなと思っていたのだが、地元の若い女の子が有料ガイドを務めてくれると言う。いつもはそうした誘いには乗らないことが多いのだが、ふとそれもいいかなと思い、OKする。

彼女の名前はカイマ。この地で生まれ育ったという。高等教育を受けたとは思えないが、英語はなかなか上手だ。
しかも、ここは彼女にとって庭のような場所らしく、どこにどんな磨崖仏があるかもよく知っているし、歴史やそこに描かれている仏画や壁画の内容まで、詳しく説明してくれる。
ここには磨崖仏が40万体もあるのだそうだ。

山にはニホンザルそっくりの野生ザルが生息していて、時折餌をねだってついてくる。
ここには4グループの猿がいて、ボス猿が統率しているの。ほら、あれがボスよ、と教えてくれる。嵐山のモンキーパークみたいだ。

カイマと一緒に山を上り下りしながら、いくつもの崖や洞窟に彫られた磨崖仏を見て回る。

ある壁画には、お釈迦様の一生を描いた絵が描かれていた。
カイマが話す。
「お釈迦様はね、プリンスとして何不自由のない暮らしをしていたの。お金もある。お世話をしてくれる人もたくさんいて困ることもない。でも、毎日が退屈で退屈で、生きる目的もないの。彼は旅に出た。たくさんの人に出会い、いろいろな修行をしたわ。それでも何か納得できない、、。ある日彼は菩提樹の樹の下に座り込んだの。ずっとずっと座っていたわ。自分の人生や生きる目的はなんだろうって考えながら。そして、そこでとうとう悟りを開いたの」
彼女なりの解釈だったかもしれない。でも、彼女の語る物語は自分のことを語るように自然で、自分の中に溶け込んだ物語を語るようで、私はなんだかちょっと感動してしまった。これまでに誰かからこんなふうにブッダの一生を語ってもらったことはなかったなあ。

この土地に生まれ育ち、今もここに暮らす彼女にとって、この山は愛すべき自分の場所だ。だからこそ、そのガイドにはとても説得力がある。
釈迦の悟りの話、ここに寺院をつくったキングの話、「ほら見て、この仏様、すごく美人でしょう?」「さあ、ここが一番私の好きな景色よ!」そんなふうに案内してくれた小高い崖の上は、見晴らしが良く、周りの集落がよく見渡せた。「あそこが私の生まれ育った村なんだ」

生き生きと語りながら案内してくれるカイマをみていて、彼女にガイドを頼んでほんとに良かったなと思った。ミャンマーって公の学校教育がなかなかいいのかも。
「さあ、ここからは私のお気に入りの寺院の始まりよ!」

私達は時がたっても互いを思い出せるようにと一緒に写真を撮った。
帰る前、私が彼女の英語力やガイド力を褒めると、彼女はちらっとつぶやいた。
「ホントはね、私、できれば自分と同じようなブラウンカラーじゃなく、もう少し色の白い人種と一緒になれたらいいなあと思うこともあるの。でも、美人じゃないし、きっと無理だと思うけどね」
カイマ、あなたは賢いし、今のままで十分に生き生きと魅力的。自分の生まれ育った場所に誇りを持って、しっかり前を向いて、これからも自分の道を進んでいってね!心からそう思った。

その6へ続く