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ミャンマー竹紙探訪の旅 その4

2月6日 バガンへ

一旦NORIKI日本語学校の皆さんと別れ、ミャンマー屈指の仏教聖地、バガンを目指す。今日は船でエーヤワディー川を1日かけて川下りし、バガンに入る予定だ。

朝5時前に起きて荷造りをし、6時過ぎにホテルを出て桟橋へ。

出航時間はちょうど日の出と重なり、マンダレーの寺院や家並みがシルエットになって美しく浮かび上がる。

 


海のようにゆったりした大河エーヤワディー川からは、つぎつぎと川岸の寺院や仏塔が現れては過ぎてゆく。牛が草をはんでいる牧草地や、川岸で水遊びをする子どもたち、行き交う小舟なども見える。最初は過ぎゆく光景がめずらしく、船べりから眺めては「わあ~!」といちいち感動していたが、次第に同じ光景の繰り返しで眠くなってしまい、そのうち爆睡してしまった。

T氏はヘッドフォンで音楽を聞きながら、周りの景色を眺め、時折iPhoneで地図や位置情報を確かめながらごきげんだ。彼は地図が大好きなのだ。

川下りの船は、長距離バスよりは少し価格が高いが、車のように埃だらけの悪路を揺られることもなく、眺めもよく、朝食も昼食もついているので、そう高いとはいえないと思う。何しろゆったりと気持ちがいい。ラオスの川下りでもそう思ったが、この地域の人々にとって、船は重要な交通、運輸、生活の道であったことがよく分かる。

夕方4時着と聞いていたが、乾季で浅瀬を避け、ジグザグ走行したためか、やや遅れて、夕方5時頃バガンに到着した。

NORIKI日本語学校のチョーさんが予約してくれたルビートゥルーホテルに入る。離れ形式のコテージでリゾート風な趣。欧米旅行者が多く、マンダレーとはまったく雰囲気が異なる。

ミャンマーの漆をみる

マンダレーでガイド同行してくれたロンロンさんから、バガンのおすすめレストランの名を聞いていたので、夕食を食べに行こうとタクシーに乗る。と、タクシーのお兄ちゃんが「シンカバ村の漆は本物だ、ぜひ見るといいよ」と言う。行く途中だと言うので、寄り道することにした。

立ち寄った店は製作も販売もしているところで、2階では製作もしていると言うので、見学させてもらう。

中学生ぐらいの女の子たちが、5~6人、漆に彫り物をしている。むしろのような竹ござの上で、竹ひごで木地を作っている子もいれば、塗られた漆から下地の色を彫り出す形で模様を描いている子もいる。女の子たちは見学者の私達にも笑顔で、可愛くやさしい子たちだったが、時間は夜の8時過ぎ。ミャンマーの女の子たち、ちょっと働かせられすぎではない?

1階の店にもついつい見入ってしまう。
日本の漆とはまた少し違って、色を重ねて塗って、上の漆を削りながら下地の色を見せて模様を描いているものが多いが、それもまた美しい。手間のかかる作業だと思う。

予定にはなかったが、思わずお弁当箱のような漆塗のお重を買ってしまった。

マンダレーで交通渋滞する道路にいたとき、自転車やバイク通勤の人々がお弁当箱をぶら下げているのをよく見かけた。現代で使われているものはステンレス製が多かったが、形としては同じ。昔は木や漆製だったのだろう。段重ねのお重タイプの弁当箱で手提げ部分がついている。一番上にちょこんと帽子のような湯呑がついているのもかわいい。

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ああ、つい手が伸びてしまった。(その後、日本に戻ってからも、このお弁当お重はお気に入りで、ことあるごとに愛用している)

2月7日 バガンの仏教遺跡をめぐる

バガンは11世紀ビルマ族最初の王朝が開かれた場所で、壮大な平原に数千とも言われる仏教遺跡が点在している。カンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロブドールとともに、世界の三大仏教遺跡といわれているそうだ(私達がミャンマー訪問後の2016年8月に大きな地震にも見舞われ、被害を受けたと聞くが、その後修復作業も進み、2019年ユネスコの世界遺産として登録された)

この日は、Eバイクというレンタルの電動バイクを借りて、2人乗りでバガンを回ることにした。

なにせ広い平原の中に、大小様々な寺院や仏塔が無数に点在しているので、とても歩いて全てを見ることはできそうにない。かといって、タクシーやバスでは小回りがきかず、やはり、好きな場所をあちこち自由に回るにはこれしかない、ということでバイクを借りた。

しかし、私はペーパードライバーだし、T氏ももう何十年もバイクなんて乗ったことがない。「な~に、大丈夫や」と言ったものの、日本のように舗装の行き届いた道ではなく、砂だらけの未舗装道路。試しに走ってみると、砂に足を取られて、T氏、あっという間にころんだ。

まあ、下は砂地だったので、けがをすることはなく、その後も1~2度砂に足を取られて転倒の危機はあったものの、なんとか快適に回ることができた。でも、ヘルメットもなく、どうみてもアブナイ中年夫婦の二人乗り。「いいんか?」という感じではあったけれど。

祈りの心

ミャンマーは敬虔な仏教国だ。現在もどんな街にも農村にも寺院があり、そこで祈り寄進をする人々の姿をたくさん見かける。バガンには昔も今も変わらないそうした人々の祈りの心が、遺跡となって数多く残っている。

王様や貴族が寄進して建てたのであろう立派な寺院や仏塔もあれば、庶民が家族の安寧を祈って建てたのであろうささやかな仏塔もある。今なお信仰を集めているものもあれば、訪れる人もなく崩れかかっているものもある。広い平原の中に無数に建つそうした仏塔を見渡していると、これらを建てた多くの人々の祈りの心が迫ってきて、ふと胸が詰まる思いに駆られる。

バガンの中でも一番荘厳で美しいと言われるアーナンダー寺院にお参りする。観光客も多いバガンだが、地元ミャンマーの人も数多く訪れていて、みな、本堂に安置される仏像に熱心にお参りしている。

寺院の中では誰もが靴を脱いで裸足となり、膝をつき手を合わせて拝礼する。そして、入り口や本殿近くには、金箔が束になって売られていて、祀られた仏像に金箔を貼って祈る習慣がある。
このために金箔がたくさん必要で、そのために竹紙が使われているのだ。

私も金箔を買って観音様に金箔を貼らせてもらう。
あとになって、本来は男性がするものであると聞いたが、ここでは女性である私が金箔を買っても何も言われることはなかったし、観音様に小さな金箔を貼る私を咎める人はいなかった。

この行為を行うために、この国には竹紙が存在していたのだなあ、と改めて思う。

私はそれを追い求めてここまでやってきた。ミャンマー竹紙の話を聞いてから15年余り、待っていた長い時間と遠い道のりは、この時のためにあったのだ。
そんな感慨が胸に迫ってきて、観音様の手に小さな金箔を貼る時、思わず涙がこみあげた。
古から今まで、無数のミャンマーの人々が祈る心と、自分のちいさな祈りが、合わさって溶けていったように思えた瞬間だった。

この日は1日中あちこちの寺院や仏塔を巡った。

裸足で高い階段をよじ登るようにして塔の上にあがり、広がる景色を眺めた。人気の少ない仏塔では、勝手ながらちょっと座禅も組んでみた。一番気に入った見晴らしの良い寺院の仏塔の上で夕日を眺めることにした。次第に落ちてゆく夕日を眺め、日が沈むまでゆっくり時を過ごした。

ビルマの竪琴

1日じゅうバイクで動き回り、砂だらけになったので、夜はゆっくりホテル内のレストランで食事することにした。

室内には心地よい音楽が流れている。「これ何?」とホテルの人に聞いてみると、ミャンマーの伝統楽器の竪琴ですよと教えてくれる。ミャンマーの竪琴?へえ~、そうなんだ。えっ?あ、そうか!それ知ってる!「ビルマの竪琴だ!」と気づく。子供の頃児童文学で読んだっけ。

ホテルの人とそんな話をしていたら、ホテルの人が、パソコンをもってきて古い日本映画の画像を出してくれる。市川崑監督、三國連太郎主演の『ビルマの竪琴』だ。

中年以上の日本人なら、内容は忘れていても、この題名には記憶があるはず。

第2次世界大戦中にビルマに渡った日本軍兵士が、終戦後も現地に残り、ビルマの竪琴を弾くお坊さんになってゆく、、そんな話だったような、、。

ああ、ここは戦地となった場所だったんだなあ。国名がミャンマーと変わり、アウンサンスーチーさんや軍事政権の話は近い歴史として頭にあったが、日本人にとってもミャンマー人にとっても、ここは戦場でもあったのだ。そういう歴史のつながりもあったのだった。

朝、ホテルの庭で朝食をとっている時、すぐ脇に小さな植樹と記念札を見つけた。元日本人兵士の遺族会がここを訪れた記念に植えたらしい植樹だった。

日本軍による史上最悪の作戦と言われるインパール作戦は、ビルマからインドに至る道がその舞台で、作戦地は白骨街道と呼ばれるほど多くの死者が出て悲惨な地と化したと聞く。この植樹は生き残った僅かな人々やその遺族が、その足跡をたどり慰霊するためにこの地を訪れ、記念に植えられたものなのだろうと思った。ささやかな植樹だったが、そこから歴史の糸をたどることができた。忘れてはならない。

→その5に続く

ミャンマー竹紙探訪の旅 その3

2月5日 竹紙づくりの家へ

朝9時、チョーさんが車を手配してくれて、マンダレーの郊外、ザガイン方向へ向かう。ドライバーさんの他、NORIKI日本語学校の卒業生でもあるガイドのロンロンさんも一緒だ。

マンダレーから車で1時間ほど走り、ザガインからさらに未舗装のガタゴト道を20~30分ほど走った農村に竹の紙をつくる家があった。


家族経営で、一家みんなで竹紙をつくっている。
ご主人、奥さん、、息子さん、娘さん、妹、おばあちゃんなど、みんなが集まってきて、私のつくった竹紙も見てもらう。

びっくりしたことに、彼らが言うには、私の訪問する15年ほど前にもアメリカ人の女性が竹紙に興味を持ってここを訪ねてきたことがあったという。その時の記念写真が家に残されていた。
そして、さらに驚くことには、その女性は、私が寺町二条でテラをやっていた頃、店に訪ねてきてミャンマー竹紙の話を教えてくれたアメリカ人男性のお母さんで、私もまったくそんなことは知らずにいたのだが、偶然にも数年前西陣テラでお目にかかり、たがいに紙談義におおいに花を咲かせたロナさんというアメリカ人女性だった。
入国後3日目に、突撃取材で訪れたミャンマーの片田舎の農村で、いきなり求めていた竹紙の郷に行きつき、ましてや15年間心に温めていた竹紙情報の提供者のお母さんと同じ家を訪れるなんて、何という偶然!なんて運命は不思議なんだろう!

ここに来て一番先に気づいたのは、またまた音だった。

どこから?と思ったら、家横の建物の狭い階段を降りた穴蔵のようなところで、8~10人位の10代前半くらいの女の子たちが、こん棒ですごい音を立てながら竹紙を叩き続けていた。

布と水を使って、「シカの木」と呼ぶ柔らかい木の棒で竹紙をひたすら叩く。
時々棒の先にココナツオイルを少しだけ付けて、また竹紙を叩く。
時々布で水気を拭いてはまた叩く。朝から晩まで叩くそうだ。

竹は、以前は近くのものを切って使っていたが、今は周りにはあまりなくなってしまったので、マンダレーの北の方から運んできているとのことだった。

 

 

紙料の作り方は、若竹を切って壺に詰め、溝を掘って木を燃やした上に壷をおいて茹でる。壷には若竹と石灰が入っていて、この壷を3年間置いておく。基本的に蓋をしておくが、時々雨にも当てる。

それを5日間煮て、水で洗い、粉挽きと同じように石臼で挽いて潰す。今は、石臼は動力も使っているとご主人が説明してくれた。

息子さんに紙漉きのやり方を見せてもらう。彼は16歳から27歳の現在まで、紙漉きをやっているそうだ。

 

紙料は小さなツボに入れて撹拌し、水槽に置いた漉き枠の中に紙料を溶かして、手で撹拌して伸ばしていく。木の棒で表面をなめらかに整えて、少しずつ水が切れるのを待ち、少しずつ静かに漉き枠を持ち上げていくのが微妙な技だ。

漉き枠には目の細かい木綿がピンと張られている。
干すときは、黒い綿布(巻きスカート・ロンジーの古くなったもの)で裏から水切りを2~3回して、枠ごと干す。
しっかり日に当てて干しあげたら、端からスイ~ッと剥がしていく。

均一な薄い黄色い色の竹紙が漉き上がる。

それを正方形に切って、叩いていくのが、先の少女たちの仕事なのだ。彼女たちは雇われている村の子たちなのだろうと思う。

この家では、キングガロンの他にも、金箔工房に2箇所ほど竹紙を卸しているそうだ。家構えはこの辺の農家としてはなかなか立派で、私がすこしばかり竹紙を購入させてもらった値段からしても、竹紙はまずまずの現金収入となっているのかなと推察した。

家の壁には、子どもたちの得度式(ミャンマーの男子は一生に一度はかならず得度をする習慣があり、これにはかなりのお金がかかるのだそうだ)の華やかな写真が飾られていた。

 

ご一家に茹でとうもろこしをごちそうになり、記念写真を撮ってこのお宅を後にした。

 

わらの紙づくりをみる

竹紙づくりの家から15分ほど行ったところに、わらで紙を漉いている家があると言うので訪ねてみた。こちらは素朴な農家である。

わらの紙は、稲を採った後のわらを干してから、50日間壷の水につけ、それを取り出して洗い煮る。柔らかくなったものをほぐし、それを足踏み式の臼でつく。

紙料には黄色い色の染料を混ぜる。
水槽に漉き枠を置き、紙料をとかし入れて水切りして漉きあげて干す。

木枠に張られた布は、大判の布巾のような綿布で、竹づくりに張ってあったものよりは目が粗い。ココナツオイルを塗って叩くといった工程はない。

パッと見ると、漉き終えたときは概ね似たような紙のように見えるが、明らかに竹の紙のほうが上等と捉えられているのがわかる。紙の値段も10倍ほど違うし、つくっている人のプライドにも差があるのを感じる。

昨日行ったキングガロンでも、わらの紙はたくさん束にしてクッションのように使われたり、出来上がった金箔の間紙に使われていたが、竹の紙は金箔が直接に接する部分の上下1枚ずつしか使われていなかった。

あぶらとり紙を考えると、金箔をつくる際に竹紙の吸湿性の良さが大きな意味を持つのかなと思えるが、ココナツオイルを塗ってあれほどまでに叩くのは、金箔を伸ばすときに丈夫で破れないようにすること、紙の密度を高めてなるべく平滑にして、金箔がむらなく薄く伸ばせるようにすること、などの重要な要素があるのではないかと考えられた。

これまで中国各地の竹紙、ラオスの少数民族の竹紙などをみてきたが、ミャンマーではそれらともまた違う用途と品質の竹紙に出会うことができた。

この日までに今回の旅の半分以上の目的が叶えられたのではないか、というような濃厚な1日であった。

その4に続く

ミャンマー竹紙探訪の旅 その2

(その1から続く)

2月4日 NORIKI日本語学校との出会い

今回の旅の目的は竹紙だ。
ミャンマーで竹紙が作られ使われているらしいということは、ずいぶん前に聞いたことがあった。テラを始めてしばらくした2000年頃かもう少し後だったか、店にたまたま立ち寄ってくれたアメリカ人のお客さんが、ミャンマーで撮ってきたというビデオを見せてくれたことがあったのだ。はっきりしたことは覚えていなかったが、ミャンマーの寺院では金箔を使う習慣があり、それをつくる際に竹紙を使うというような話だったと思う。

竹紙の専門店と名乗ったからには、国内外を問わず、どこで誰がどのような竹紙をなんのためにつくっているのか調べようというのが、私のライフワークでもあり、今回はそのための旅であった。
長い間心の片隅にあったミャンマー竹紙を訪ねる旅の決行であった。

しかし、竹紙をどこでどのようにつくっているのか使っているのか、細かな情報は持ち合わせていなかった。唯一手がかりとしていたのは、マンダレーに金箔をつくる工房があることだった。それを頼りにマンダレーに直進してきた。

ミャンマーは、現在、日本との交易が盛んになりつつあり、マンダレーには大学に日本語学科があり、日本語学校もいくつかあるという。まず、そうしたところを訪ね、日本語のできる人から竹紙情報を得ようと考えた。もしかしたら、日本語ガイドを務めてもいいなんていう学生が見つかるかもしれないなどとも思いながら。

朝からマンダレー大学近くにいくつかある日本語学校のまわりを歩いていると、「NORIKI日本語学校」という看板があった。NORIKIって何?経営者の名前かな?もしや日本人かも?
飛び込みで中にはいってみる。

モーさんというミャンマー人女性の先生が優しく対応してくれる。校長先生のチョーさんや事務方のトーキョーさん?も出てきて親切に対応してくれる。

NORIKI日本語学校には、日本人はおらず、校長先生も先生方も全員がミャンマー人だった。チョーさんもモーさんもマンダレーの大学で日本語を学び、長期の日本滞在などの経験はないにもかかわらず、日本語は流暢だ。教室も見学させてもらったが、生徒たちは若く活気にあふれていて、みなやる気いっぱいだ。

突然訪れた変な日本人夫婦にも「これが生の日本人か」というような旺盛な好奇心を感じる。日本企業で働いたり、日本語を使って仕事の幅が広がることに大きな意欲を持っている様子が感じられた。

ちなみに「NORIKI日本語学校」の「NORIKI」は日本人の名前ではなく、「やる気、乗り気」の意味のNORIKIであるらしかった。

竹紙の金箔工房へ

午後、NORIKI日本語学校の校長先生、チョーさんに案内してもらい、「キングガロン」という金箔工房に出かける。

トンカン、トンカン、店の外からリズミカルな音が響いている。


工房に入ると、入れ墨をしたガタイの良いお兄さんたちが上半身裸で木の棒を振り下ろしながら金箔を叩いている。力仕事だ。額に汗しながら、男性たちが何人もでこん棒を振り続ける。そしてその音が交互に響き渡り続けている。

トンカン、トンカントンカン、トンカン、、、、。

金箔の間に挟む紙が竹紙だと聞いていたけれど、現場で聞いてみると、束にしてたくさん挟んでいる紙はわらの紙で、金の直接当たるところに挟んでいる紙だけが竹紙だという。でも、その紙は油が染み込んだ薄くて黄色いパラフィンのような紙で、「これが竹紙なの?」と???が増える。

まあ、日本でいうところのあぶらとり紙も金箔を叩く間に挟む紙だったというから、それに近い感じなのかな。それにしても私達の竹紙とは大いに異なる。

 

 

で、「その竹紙はどこでつくっているの?」と聞くと、マンダレーの郊外の方に、竹紙を漉いている場所があり、そこから仕入れているとのことだった。ぜひそこに行ってみたいと伝えて、詳しい場所を聞いてもらった。

大変ありがたいことに、チョーさんが手配をしてくれて、翌日竹紙をつくっている場所に連れて行ってもらえることになった。

やはり、現地に来て、足で回るといろいろな情報が手に入る。それにしても、よい出会いがあって本当に幸運だった(その後もNORIKI日本語学校の方々には今回の旅で大変お世話になった。見ず知らずの飛び込みの日本人にこれ程までに親切にしていただき、心より感謝している)

→その3に続く 

 

 

ミャンマー竹紙探訪の旅(2016年2月 その1)

現在は2020年1月6日です。この4年近く、詳しい報告をすることができなかった2016年のミャンマー竹紙の旅のレポートを、今ようやくアップすることにします。この4年間にさまざまなことがあり、なかなか先に進めませんでしたが、ようやく気持ちにも時間にも少し余裕が生まれ、これをアップすることで、振り出しに戻ったように、そこからもう一度駒を先に進めてみたいと考えています。
当時、旅先で記していた日記に基づき書き進めていきます。長いレポートになるかもしれませんので、どうぞお暇な時間にお読みください。

2月2日 出発まで

PM7時 自宅出発。
留守を頼んでいた川崎在住の姉が、どこでどう食い違ったのか、私達の出発日は明日だと思っていて、自宅出発時間の1時間前に京都着。我が家隣には90代の義母がいて、一人では置いておけない状況。しかも、姉を駅に迎えに行っているちょっと目を話したすきに、義母は鍋を焦がし、気づくと家は煙だらけ。自動警報機が働き、すべてのガス機器が元から止まってしまっているというちょっと危機的な状況もあった。

だいたい、出発までのここ1ヶ月はかつみゆきおさんの本づくりで、やってもやっても終わりが見えず、何日も徹夜つづき。私も静岡のかつみ工房にも足を運び、かつみさんも4泊もわが家に泊まって、夜中の写真追加撮影もあったりして、いくつもの波を乗り越え、なんとか必死で入稿までこぎつけた。
でも、もうこっちのものだ!ついに船は出たのだ!!


2月3日 バンコクからミャンマー・マンダレーへ

AM5時。夜明け前のタイ・バンコクに到着。
長い通路を歩いてバンコクエアウェイズの乗り継ぎカウンターへ移動。

目的地マンダレーへの出発は12:05なので時間ありすぎ。かと言って外に出るにはちょっと時間がないので、エコノミーでも入れるラウンジを見つけ、そこで無料のお茶や小さなサンドウィッチ、粽みたいな蒸し菓子、お煎餅などあれこれ食べる。

が、まだまだ時間はある。そこで空港内のラウンジや通路座席で思わず横になって寝ていたら、夫に「恐ろしすぎ~」と言われる。でも、国際線の通路でゴロゴロしながら、いろいろな国の民族衣装を着た人たちが行き交うのをみるのはいつだって面白い。(写真は私ではあんまりなのでT氏)

空港内でトムヤンクンを食べ、更に便は40分の時間遅れでようやくフライトとなる。移動バスの中で、ミャンマー人の小さな女の子が私に席を代わってくれる。おばあさんに見えたのかな。お礼を言うと、こんどはT氏の分まで席を代わってくれた。

ミャンマーの人の優しさに触れたようで嬉しい。子どもに良い教育がされている国なのかな、と思う。
飛行機は1時間遅れで離陸。

マンダレー到着

マンダレーの空港からタクシーで市内へ。
だだっ広い平原、知らない種類の木々、でも水田では田植えがみられ、牛が元気よく馬車仕立てで道を走る風景も見られる。
市内はトラフィックジャム。車、バイク、人、荷物が混沌と交差している。町は、どこがマーケットなのか、繁華街なのか、どれがなんの店なのか、パッとわからないかんじ。

1泊目だけ日本でネット予約しておいたホテルに入り、夕方爆睡。
夜になってからマンダレーの街を歩く。

混沌とした通りを歩くのは至難の業だ。車やバイクを避けながら必死で歩く。歩道らしきものはあるのだが、ボコボコの道で、あちこちにある下水溝は蓋が壊れて穴だらけ。下手をするとマンホールに落ちないかヒヤヒヤするし、アスファルトにボルトが飛び出していたり、石や砂利が凸凹あって、躓きそうになるし、ずっと下を向いて歩いていないと危険。

ライトアップされた美しい王宮と、そのすぐ横のまだ下水が出来上がっていない工事中の混沌とした道が対照的。

でも、人の悪さはあまり感じず、夜道もあまり怖くない。
若者たちは携帯ショップの前に群がるように集まり、おおいに賑わっている。今からどんどん街も変わっていくのだろうなあ。

夕食は町のレストランでミャンマー料理。

エビカレー、チキンカレー、カレーを頼むとライス、スープ、野菜、副菜がもれなくついてくる仕組みらしい。スープは豆スープ。野菜はウリに魚醤をかけて食べる。いんげんのピーナツあえは日本の胡麻和えにそっくり。こぶみかんの葉、キャベツ、カリフラワーや緑豆を茹でてごま油で味付けしたものなど、ミャンマーらしい味を味わう。

→その2へ続く  

竹紙干支はりこ注文受付中!

毎年恒例で作っている竹紙干支はりこが出来上がってきました!
来年は「子(ね)」ですね。向坂典子さんが陶器で型から作り、竹紙を重ね貼りして仕上げています。写真の白い竹紙は仲瀬俊平さんの竹紙、キナリの竹紙はテラの小林が漉いたものです。

ひとつずつの手作りですので、現在少しずつ在庫が増えてきていて、今月中には数が揃うと思います。
西陣テラで販売しています(1500円+税)が、ご遠方の方にはご送付もいたします。ご希望の方はどうぞお声掛けくださいね!

竹紙を漉くのにうってつけの日

パソコンで経理事務をしていたのだけれど、急に水上勉先生の「こんな天気のいい日に紙を漉かなくてどうします」という声が思い出されて、外に出て久々に紙漉きを開始。
台風が吹き荒れた10月が終わり、ようやく訪れた小春日和の1日。
無心な時間が心地よい。

竹紙照明合評会

12月に京都精華大学プロダクトデザイン学科・小山格平先生の授業で学生さんたちに竹紙漉きの体験をしてもらったのですが、今日は制作した竹紙照明のプレゼンテーション・合評会の授業があり、参加させていただいてきました。

 

一人ひとりが、どんな場所でどんな目的で使用するのかコンセプトを明確にして、自分の作った竹紙照明をプレゼンテーションしていきます。

 

 

紙を漉くところからご一緒したので、竹紙の微妙な繊維の違いも感じて使い分けてくれていたりして、それぞれの工夫が感じられます。

制作した作品は最後に廊下に展示しましたが、薄暗い廊下が彩り、とても良い雰囲気になりました。

どれが一番、ということでは決してないのですが、独断と偏見で、毎年私がビビッと感じるところがあった作品1点に「テラ賞」を出しています。今年はこの作品を選ばせていただきました。

ブック型の竹紙が蛇腹のように円形に並び、可動式になって明暗陰影に変化がつけられる、というアイデア、工夫のしどころに1票入れました。

 

 

竹紙の授業

今日は毎年恒例となりつつある京都精華大学の竹紙授業の日。

西陣テラに学生さんたちと先生も来られて、ご一緒に紙漉き体験をしました。


寒い中、屋外で水に手を突っ込んでの作業は、ちょっと気の毒だったけれど、やっぱり途中段階も知ってほしいから、料理実習のように途中段階の材料を用意し、少しずつ工程作業を体験していただきました。

その後は、軒先に吊るした干し柿をお茶請けにしつつ、竹紙の特徴や歴史の説明をあれこれと。

学生さんたちは、今日漉いた竹紙を使って、これから1月にかけて、照明器具を制作します。1月末には出来上がった作品の作品発表合評会にも参加させて頂く予定です。

干支張り子できあがりました!

あと2日で師走です。来年ももうすぐそこまで近づいてきました。

この時期になると、テラではこれが登場します。

毎年恒例で制作している竹紙干支張り子です。

来年の干支は「亥」イノシシですね。来年はテラ20周年の記念すべき年でもありますので、張り子用の竹紙は、私小林亜里が竹切りからして漬け込み、煮て、潰して作った材料を、1枚ずつ手漉きしました。そして、陶芸家の向坂典子さんにバトンタッチし、向坂さんが陶器で型から作り、下張りと化粧梁の竹紙を貼り、顔や模様を手描きして、張り子に仕上げてくれています。

「真っ直ぐに進め!」 ってかんじかな?

竹紙干支張り子、今は西陣テラに在庫がありますし、これからも紙→張り子へと制作が進んでいます。お求めの方は西陣テラにお越しいただくか、ご送付もいたしますので、まずはお電話かFAX、メールにてお申込みください。1匹1500円+税=1620円、ご送付の場合は送料200円を頂戴いたします。どうぞ皆さんお声掛けくださいね!

 

 

 

皐月

しばしご無沙汰しているうちに5月となりました。もう夏のように暑い日があったり、まだ肌寒い日があったり、季節がめまぐるしく変わりますが、ここのところは、基本西陣テラをベースに過ごしています。

4月、毎年タケノコでも竹紙の材料でもお世話になっている西山の竹林に、今年も出かけました。もう30年余りも通っているタケノコ農家で掘りたてのタケノコを分けてもらい、気持ち良い草むらでお弁当を食べる。毎年変わらぬ季節の行事を楽しみました。

西陣テラでは、小さな庭にも次々に季節の花が咲き、春先のスミレ、ハナダイコン、ヤマブキ、カラスノエンドウ、シャガ、ホウチャクソウ、フタリシズカ、バイカウツギなど少しずつ変化して行っています。

「やる!」と宣言してからもうずいぶん日が経ってしまった西陣テラの一角に畑を作る「街を耕す」(アスファルトの駐車場の一部を土に戻して畑にする)計画も、遅々としてではありますが、進んでいます。

その畑の一角に漆の苗木を植えました。テラうるし部の部活の一環ですが、漆塗りを楽しむだけではなく、国産うるしを育てていかなくては、という思いもあり、京北の方にも植樹の試みをしたのですが、鹿の害でなかなか進まない、という話もあり、ならば鹿のやってこない西陣テラの一角にうるしの苗木を植えてみようということになったのでした。

3本の苗木を植えました。

日差しが暖かくなるにつれて、新芽が出てきています。10年ぐらいたったら西陣テラで育ったうるしの木で漆掻きができるかもしれません。そしたら西陣テラさんの漆で拭き漆をしてみたいものです。気長な取り組みですが、見守っていきたいと思っています。