日別アーカイブ: 2020年1月7日

ミャンマー竹紙探訪の旅 その2

(その1から続く)

2月4日 NORIKI日本語学校との出会い

今回の旅の目的は竹紙だ。
ミャンマーで竹紙が作られ使われているらしいということは、ずいぶん前に聞いたことがあった。テラを始めてしばらくした2000年頃かもう少し後だったか、店にたまたま立ち寄ってくれたアメリカ人のお客さんが、ミャンマーで撮ってきたというビデオを見せてくれたことがあったのだ。はっきりしたことは覚えていなかったが、ミャンマーの寺院では金箔を使う習慣があり、それをつくる際に竹紙を使うというような話だったと思う。

竹紙の専門店と名乗ったからには、国内外を問わず、どこで誰がどのような竹紙をなんのためにつくっているのか調べようというのが、私のライフワークでもあり、今回はそのための旅であった。
長い間心の片隅にあったミャンマー竹紙を訪ねる旅の決行であった。

しかし、竹紙をどこでどのようにつくっているのか使っているのか、細かな情報は持ち合わせていなかった。唯一手がかりとしていたのは、マンダレーに金箔をつくる工房があることだった。それを頼りにマンダレーに直進してきた。

ミャンマーは、現在、日本との交易が盛んになりつつあり、マンダレーには大学に日本語学科があり、日本語学校もいくつかあるという。まず、そうしたところを訪ね、日本語のできる人から竹紙情報を得ようと考えた。もしかしたら、日本語ガイドを務めてもいいなんていう学生が見つかるかもしれないなどとも思いながら。

朝からマンダレー大学近くにいくつかある日本語学校のまわりを歩いていると、「NORIKI日本語学校」という看板があった。NORIKIって何?経営者の名前かな?もしや日本人かも?
飛び込みで中にはいってみる。

モーさんというミャンマー人女性の先生が優しく対応してくれる。校長先生のチョーさんや事務方のトーキョーさん?も出てきて親切に対応してくれる。

NORIKI日本語学校には、日本人はおらず、校長先生も先生方も全員がミャンマー人だった。チョーさんもモーさんもマンダレーの大学で日本語を学び、長期の日本滞在などの経験はないにもかかわらず、日本語は流暢だ。教室も見学させてもらったが、生徒たちは若く活気にあふれていて、みなやる気いっぱいだ。

突然訪れた変な日本人夫婦にも「これが生の日本人か」というような旺盛な好奇心を感じる。日本企業で働いたり、日本語を使って仕事の幅が広がることに大きな意欲を持っている様子が感じられた。

ちなみに「NORIKI日本語学校」の「NORIKI」は日本人の名前ではなく、「やる気、乗り気」の意味のNORIKIであるらしかった。

竹紙の金箔工房へ

午後、NORIKI日本語学校の校長先生、チョーさんに案内してもらい、「キングガロン」という金箔工房に出かける。

トンカン、トンカン、店の外からリズミカルな音が響いている。


工房に入ると、入れ墨をしたガタイの良いお兄さんたちが上半身裸で木の棒を振り下ろしながら金箔を叩いている。力仕事だ。額に汗しながら、男性たちが何人もでこん棒を振り続ける。そしてその音が交互に響き渡り続けている。

トンカン、トンカントンカン、トンカン、、、、。

金箔の間に挟む紙が竹紙だと聞いていたけれど、現場で聞いてみると、束にしてたくさん挟んでいる紙はわらの紙で、金の直接当たるところに挟んでいる紙だけが竹紙だという。でも、その紙は油が染み込んだ薄くて黄色いパラフィンのような紙で、「これが竹紙なの?」と???が増える。

まあ、日本でいうところのあぶらとり紙も金箔を叩く間に挟む紙だったというから、それに近い感じなのかな。それにしても私達の竹紙とは大いに異なる。

 

 

で、「その竹紙はどこでつくっているの?」と聞くと、マンダレーの郊外の方に、竹紙を漉いている場所があり、そこから仕入れているとのことだった。ぜひそこに行ってみたいと伝えて、詳しい場所を聞いてもらった。

大変ありがたいことに、チョーさんが手配をしてくれて、翌日竹紙をつくっている場所に連れて行ってもらえることになった。

やはり、現地に来て、足で回るといろいろな情報が手に入る。それにしても、よい出会いがあって本当に幸運だった(その後もNORIKI日本語学校の方々には今回の旅で大変お世話になった。見ず知らずの飛び込みの日本人にこれ程までに親切にしていただき、心より感謝している)

→その3に続く 

 

 

ミャンマー竹紙探訪の旅(2016年2月 その1)

現在は2020年1月6日です。この4年近く、詳しい報告をすることができなかった2016年のミャンマー竹紙の旅のレポートを、今ようやくアップすることにします。この4年間にさまざまなことがあり、なかなか先に進めませんでしたが、ようやく気持ちにも時間にも少し余裕が生まれ、これをアップすることで、振り出しに戻ったように、そこからもう一度駒を先に進めてみたいと考えています。
当時、旅先で記していた日記に基づき書き進めていきます。長いレポートになるかもしれませんので、どうぞお暇な時間にお読みください。

2月2日 出発まで

PM7時 自宅出発。
留守を頼んでいた川崎在住の姉が、どこでどう食い違ったのか、私達の出発日は明日だと思っていて、自宅出発時間の1時間前に京都着。我が家隣には90代の義母がいて、一人では置いておけない状況。しかも、姉を駅に迎えに行っているちょっと目を話したすきに、義母は鍋を焦がし、気づくと家は煙だらけ。自動警報機が働き、すべてのガス機器が元から止まってしまっているというちょっと危機的な状況もあった。

だいたい、出発までのここ1ヶ月はかつみゆきおさんの本づくりで、やってもやっても終わりが見えず、何日も徹夜つづき。私も静岡のかつみ工房にも足を運び、かつみさんも4泊もわが家に泊まって、夜中の写真追加撮影もあったりして、いくつもの波を乗り越え、なんとか必死で入稿までこぎつけた。
でも、もうこっちのものだ!ついに船は出たのだ!!


2月3日 バンコクからミャンマー・マンダレーへ

AM5時。夜明け前のタイ・バンコクに到着。
長い通路を歩いてバンコクエアウェイズの乗り継ぎカウンターへ移動。

目的地マンダレーへの出発は12:05なので時間ありすぎ。かと言って外に出るにはちょっと時間がないので、エコノミーでも入れるラウンジを見つけ、そこで無料のお茶や小さなサンドウィッチ、粽みたいな蒸し菓子、お煎餅などあれこれ食べる。

が、まだまだ時間はある。そこで空港内のラウンジや通路座席で思わず横になって寝ていたら、夫に「恐ろしすぎ~」と言われる。でも、国際線の通路でゴロゴロしながら、いろいろな国の民族衣装を着た人たちが行き交うのをみるのはいつだって面白い。(写真は私ではあんまりなのでT氏)

空港内でトムヤンクンを食べ、更に便は40分の時間遅れでようやくフライトとなる。移動バスの中で、ミャンマー人の小さな女の子が私に席を代わってくれる。おばあさんに見えたのかな。お礼を言うと、こんどはT氏の分まで席を代わってくれた。

ミャンマーの人の優しさに触れたようで嬉しい。子どもに良い教育がされている国なのかな、と思う。
飛行機は1時間遅れで離陸。

マンダレー到着

マンダレーの空港からタクシーで市内へ。
だだっ広い平原、知らない種類の木々、でも水田では田植えがみられ、牛が元気よく馬車仕立てで道を走る風景も見られる。
市内はトラフィックジャム。車、バイク、人、荷物が混沌と交差している。町は、どこがマーケットなのか、繁華街なのか、どれがなんの店なのか、パッとわからないかんじ。

1泊目だけ日本でネット予約しておいたホテルに入り、夕方爆睡。
夜になってからマンダレーの街を歩く。

混沌とした通りを歩くのは至難の業だ。車やバイクを避けながら必死で歩く。歩道らしきものはあるのだが、ボコボコの道で、あちこちにある下水溝は蓋が壊れて穴だらけ。下手をするとマンホールに落ちないかヒヤヒヤするし、アスファルトにボルトが飛び出していたり、石や砂利が凸凹あって、躓きそうになるし、ずっと下を向いて歩いていないと危険。

ライトアップされた美しい王宮と、そのすぐ横のまだ下水が出来上がっていない工事中の混沌とした道が対照的。

でも、人の悪さはあまり感じず、夜道もあまり怖くない。
若者たちは携帯ショップの前に群がるように集まり、おおいに賑わっている。今からどんどん街も変わっていくのだろうなあ。

夕食は町のレストランでミャンマー料理。

エビカレー、チキンカレー、カレーを頼むとライス、スープ、野菜、副菜がもれなくついてくる仕組みらしい。スープは豆スープ。野菜はウリに魚醤をかけて食べる。いんげんのピーナツあえは日本の胡麻和えにそっくり。こぶみかんの葉、キャベツ、カリフラワーや緑豆を茹でてごま油で味付けしたものなど、ミャンマーらしい味を味わう。

→その2へ続く