2月6日 バガンへ
一旦NORIKI日本語学校の皆さんと別れ、ミャンマー屈指の仏教聖地、バガンを目指す。今日は船でエーヤワディー川を1日かけて川下りし、バガンに入る予定だ。
朝5時前に起きて荷造りをし、6時過ぎにホテルを出て桟橋へ。
出航時間はちょうど日の出と重なり、マンダレーの寺院や家並みがシルエットになって美しく浮かび上がる。
海のようにゆったりした大河エーヤワディー川からは、つぎつぎと川岸の寺院や仏塔が現れては過ぎてゆく。牛が草をはんでいる牧草地や、川岸で水遊びをする子どもたち、行き交う小舟なども見える。最初は過ぎゆく光景がめずらしく、船べりから眺めては「わあ~!」といちいち感動していたが、次第に同じ光景の繰り返しで眠くなってしまい、そのうち爆睡してしまった。
T氏はヘッドフォンで音楽を聞きながら、周りの景色を眺め、時折iPhoneで地図や位置情報を確かめながらごきげんだ。彼は地図が大好きなのだ。
川下りの船は、長距離バスよりは少し価格が高いが、車のように埃だらけの悪路を揺られることもなく、眺めもよく、朝食も昼食もついているので、そう高いとはいえないと思う。何しろゆったりと気持ちがいい。ラオスの川下りでもそう思ったが、この地域の人々にとって、船は重要な交通、運輸、生活の道であったことがよく分かる。
夕方4時着と聞いていたが、乾季で浅瀬を避け、ジグザグ走行したためか、やや遅れて、夕方5時頃バガンに到着した。
NORIKI日本語学校のチョーさんが予約してくれたルビートゥルーホテルに入る。離れ形式のコテージでリゾート風な趣。欧米旅行者が多く、マンダレーとはまったく雰囲気が異なる。
ミャンマーの漆をみる
マンダレーでガイド同行してくれたロンロンさんから、バガンのおすすめレストランの名を聞いていたので、夕食を食べに行こうとタクシーに乗る。と、タクシーのお兄ちゃんが「シンカバ村の漆は本物だ、ぜひ見るといいよ」と言う。行く途中だと言うので、寄り道することにした。
立ち寄った店は製作も販売もしているところで、2階では製作もしていると言うので、見学させてもらう。
中学生ぐらいの女の子たちが、5~6人、漆に彫り物をしている。むしろのような竹ござの上で、竹ひごで木地を作っている子もいれば、塗られた漆から下地の色を彫り出す形で模様を描いている子もいる。女の子たちは見学者の私達にも笑顔で、可愛くやさしい子たちだったが、時間は夜の8時過ぎ。ミャンマーの女の子たち、ちょっと働かせられすぎではない?
1階の店にもついつい見入ってしまう。
日本の漆とはまた少し違って、色を重ねて塗って、上の漆を削りながら下地の色を見せて模様を描いているものが多いが、それもまた美しい。手間のかかる作業だと思う。
予定にはなかったが、思わずお弁当箱のような漆塗のお重を買ってしまった。
マンダレーで交通渋滞する道路にいたとき、自転車やバイク通勤の人々がお弁当箱をぶら下げているのをよく見かけた。現代で使われているものはステンレス製が多かったが、形としては同じ。昔は木や漆製だったのだろう。段重ねのお重タイプの弁当箱で手提げ部分がついている。一番上にちょこんと帽子のような湯呑がついているのもかわいい。
ああ、つい手が伸びてしまった。(その後、日本に戻ってからも、このお弁当お重はお気に入りで、ことあるごとに愛用している)
2月7日 バガンの仏教遺跡をめぐる
バガンは11世紀ビルマ族最初の王朝が開かれた場所で、壮大な平原に数千とも言われる仏教遺跡が点在している。カンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロブドールとともに、世界の三大仏教遺跡といわれているそうだ(私達がミャンマー訪問後の2016年8月に大きな地震にも見舞われ、被害を受けたと聞くが、その後修復作業も進み、2019年ユネスコの世界遺産として登録された)
この日は、Eバイクというレンタルの電動バイクを借りて、2人乗りでバガンを回ることにした。
なにせ広い平原の中に、大小様々な寺院や仏塔が無数に点在しているので、とても歩いて全てを見ることはできそうにない。かといって、タクシーやバスでは小回りがきかず、やはり、好きな場所をあちこち自由に回るにはこれしかない、ということでバイクを借りた。
しかし、私はペーパードライバーだし、T氏ももう何十年もバイクなんて乗ったことがない。「な~に、大丈夫や」と言ったものの、日本のように舗装の行き届いた道ではなく、砂だらけの未舗装道路。試しに走ってみると、砂に足を取られて、T氏、あっという間にころんだ。
まあ、下は砂地だったので、けがをすることはなく、その後も1~2度砂に足を取られて転倒の危機はあったものの、なんとか快適に回ることができた。でも、ヘルメットもなく、どうみてもアブナイ中年夫婦の二人乗り。「いいんか?」という感じではあったけれど。
祈りの心
ミャンマーは敬虔な仏教国だ。現在もどんな街にも農村にも寺院があり、そこで祈り寄進をする人々の姿をたくさん見かける。バガンには昔も今も変わらないそうした人々の祈りの心が、遺跡となって数多く残っている。
王様や貴族が寄進して建てたのであろう立派な寺院や仏塔もあれば、庶民が家族の安寧を祈って建てたのであろうささやかな仏塔もある。今なお信仰を集めているものもあれば、訪れる人もなく崩れかかっているものもある。広い平原の中に無数に建つそうした仏塔を見渡していると、これらを建てた多くの人々の祈りの心が迫ってきて、ふと胸が詰まる思いに駆られる。
バガンの中でも一番荘厳で美しいと言われるアーナンダー寺院にお参りする。観光客も多いバガンだが、地元ミャンマーの人も数多く訪れていて、みな、本堂に安置される仏像に熱心にお参りしている。
寺院の中では誰もが靴を脱いで裸足となり、膝をつき手を合わせて拝礼する。そして、入り口や本殿近くには、金箔が束になって売られていて、祀られた仏像に金箔を貼って祈る習慣がある。
このために金箔がたくさん必要で、そのために竹紙が使われているのだ。
私も金箔を買って観音様に金箔を貼らせてもらう。
あとになって、本来は男性がするものであると聞いたが、ここでは女性である私が金箔を買っても何も言われることはなかったし、観音様に小さな金箔を貼る私を咎める人はいなかった。
この行為を行うために、この国には竹紙が存在していたのだなあ、と改めて思う。
私はそれを追い求めてここまでやってきた。ミャンマー竹紙の話を聞いてから15年余り、待っていた長い時間と遠い道のりは、この時のためにあったのだ。
そんな感慨が胸に迫ってきて、観音様の手に小さな金箔を貼る時、思わず涙がこみあげた。
古から今まで、無数のミャンマーの人々が祈る心と、自分のちいさな祈りが、合わさって溶けていったように思えた瞬間だった。
この日は1日中あちこちの寺院や仏塔を巡った。
裸足で高い階段をよじ登るようにして塔の上にあがり、広がる景色を眺めた。人気の少ない仏塔では、勝手ながらちょっと座禅も組んでみた。一番気に入った見晴らしの良い寺院の仏塔の上で夕日を眺めることにした。次第に落ちてゆく夕日を眺め、日が沈むまでゆっくり時を過ごした。
ビルマの竪琴
1日じゅうバイクで動き回り、砂だらけになったので、夜はゆっくりホテル内のレストランで食事することにした。
室内には心地よい音楽が流れている。「これ何?」とホテルの人に聞いてみると、ミャンマーの伝統楽器の竪琴ですよと教えてくれる。ミャンマーの竪琴?へえ~、そうなんだ。えっ?あ、そうか!それ知ってる!「ビルマの竪琴だ!」と気づく。子供の頃児童文学で読んだっけ。
ホテルの人とそんな話をしていたら、ホテルの人が、パソコンをもってきて古い日本映画の画像を出してくれる。市川崑監督、三國連太郎主演の『ビルマの竪琴』だ。
中年以上の日本人なら、内容は忘れていても、この題名には記憶があるはず。
第2次世界大戦中にビルマに渡った日本軍兵士が、終戦後も現地に残り、ビルマの竪琴を弾くお坊さんになってゆく、、そんな話だったような、、。
ああ、ここは戦地となった場所だったんだなあ。国名がミャンマーと変わり、アウンサンスーチーさんや軍事政権の話は近い歴史として頭にあったが、日本人にとってもミャンマー人にとっても、ここは戦場でもあったのだ。そういう歴史のつながりもあったのだった。
朝、ホテルの庭で朝食をとっている時、すぐ脇に小さな植樹と記念札を見つけた。元日本人兵士の遺族会がここを訪れた記念に植えたらしい植樹だった。
日本軍による史上最悪の作戦と言われるインパール作戦は、ビルマからインドに至る道がその舞台で、作戦地は白骨街道と呼ばれるほど多くの死者が出て悲惨な地と化したと聞く。この植樹は生き残った僅かな人々やその遺族が、その足跡をたどり慰霊するためにこの地を訪れ、記念に植えられたものなのだろうと思った。ささやかな植樹だったが、そこから歴史の糸をたどることができた。忘れてはならない。
→その5に続く